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2009年3月29日 (日)

背叛社

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HP版ボリューム(E:) 背叛社

【名称】背叛社
【ヘルメット】黒無地。「VAGC」?

アナキズムを標榜する団体。元ベ反委メンバーの和田俊一によって日特金事件の後、1967年末に結成されたとされる組織である。1968年のメーデーでは代々木公園で日共系の労組員や学生に「革命的に突入」し、同年6月29日には日本共産党本部に二発の火炎瓶攻撃を行った。
極めてラジカルな戦術を採り武装闘争を指向して1968年6月頃から火炎瓶や爆弾の試作と深夜のテストを繰り返していたが、10月6日夜上落合のアパート(背叛社)にて爆弾製造中に爆弾が暴発しメンバー3人が負傷した。この一件で警視庁のガサ入れを受け、組織はダメージを受けた。機関紙は『ACW叛戦』、影響下にある団体に叛戦攻撃委員会、黒色学生連盟があるが勢力は小さく東京理科大や法政大に若干のメンバーが居るとされていた。

この下の写真は暴発事件後にガサ入れを受けた時の物。

19681006
1968.10.06背叛社暴発事件 捜索状況

19681006_2
1968.10.06背叛社暴発事件 室内の状況

19681006_3
1968.10.06背叛社暴発事件 押収品

※ベトナム反戦直接行動委員会(ベ反委)
1966年10月に結成されたベトナム反戦直接行動委員会(ベ反委)は結成直後の10月19日に日特金事件を起こす。この事件は機関銃を製造していた東京の日特金工業を襲撃した事件で、ゲバスタイルの十数人が塀の上に張り巡らされた有刺鉄線を切断して侵入、1階に侵入した部隊は電話機や機械部品を陳列したショーケースを破壊、2階へと上った5人は変電所の操作スイッチを破壊、作業を麻痺させた上「兵器生産停止」を要求するビラを撒いて撤退した。この行動による被害は微々たる物であったが、兵器産業を担う諸企業に衝撃を与えた。また同年11月15日には、逮捕を免れ潜伏中であった6人が豊和工業に突入を謀る事件が発生した。



2009年3月26日 (木)

日本大学全学共闘会議

【名称】日本大学全学共闘会議
【ヘルメット】白地に「全共闘」「全共斗」など。

議長は秋田明大氏。
他のヘルメットにはモヒカンヘルに「全共闘」の理工学部闘争委員会、白or黒(恐らく年代で変化する)地に「芸」の芸術学部闘争委員会などなど。ノンセクトの銀ヘル部隊もいた。 東大全共闘と並んで全共闘の代表格である。

19680912
1968.09.12 日大全共闘 投石準備

19680912_2
1968.09.12 日大全共闘 投石準備2

19680912_2
1968.09.12日大全共闘 激しい投石で苦戦

19680912_4
1968.09.12日大全共闘 投石用に、歩道の敷石をはがし、運搬準備



2009年3月22日 (日)

改憲阻止学生会議 社青同協会派

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HP版ボリューム(E:) 日本社会主義青年同盟全国学生班協議会(協会向坂派)

 

【名称】改憲阻止学生会議
【上部団体】日本社会党=日本社会主義青年同盟中央本部学生班 (社青同協会派)
【ヘルメット】白地に「反独占」。

詳しい歴史は解放派の項を参照。※訂正1966年9月の社青同大会で正式に解放派は除名され、以後社青同学生班は協会派の手で担われることになった。社青同の名前は圧倒的に解放派の方が有名だが、中央を握ったのは協会派である。

19691126
1969.11.26 総理の帰国に際しても革新諸団体の抗議集会が行われた。

※訂正

上記説明について下記の通り訂正いたします。

誤:1966年9月の社青同大会で

正:1971年2月の社青同第10回大会で

郡山さんよりご指摘を賜りまして、根拠まで示していただきましたので訂正いたします。詳細に関しましてはコメント欄をご参照ください。後日手元の資料以外にも、新たに資料を集めて加筆訂正したいと考えております。

郡山さんご指摘いただきありがとうございました。



2009年3月21日 (土)

第四インター日本支部その2 武装蜂起準備委員会(AIPC プロレタリア軍団)

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HP版ボリューム(E:) 武装蜂起準備委員会

 

【名称】武装蜂起準備委員会 プロレタリア軍団
【上部団体】第四インター日本支部・日本革命的共産主義者同盟BL派
【ヘルメット】黒地に「プロ軍団」「AIPC」など。

国際主義共産学生同盟とは同団体内での派閥が違うだけで歴史は変わらないので、先日の記事を参照してください。

で、写真が無いです(爆)
私は写真では「AIPC」のメットしか確認していません。TOPの警察資料も「AIPC」ですが、それとは別に『OTHER VOICES』と言う写真集で確認しています。ページ数が記されていないので具体的に数字は挙げられませんが、1969年6月15日、日比谷公園に於ける写真で、「AIPC」メットの学生が「プロレタリア軍団」の旗を持っています。

「プロ軍団」の方は「全学連各派」の表紙裏のメット一覧から持ってきました。写真による確認はしていません。
だれか「プロ軍団」メットの学生が確認できる写真を持っていたら送っていただけると幸いです。「プロ軍団」メットが確認できる写真が掲載されている書籍や雑誌の書名を送っていただける形でも構いません。

【写真掲載文献】
①平沢豊,『OTHER VOICES 東大全共闘・68-70』,春風社



2009年3月16日 (月)

第四インター日本支部その1 国際主義共産学生同盟

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HP版ボリューム(E:) 日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)

 

【名称】国際主義共産学生同盟
【上部団体】第四インター日本支部・日本革命的共産主義者同盟多数派
【ヘルメット】赤地に「槌と鎌」。

「日本革命的共産主義者同盟」というように、元々は中核派や革マル派と同一の組織からの分派である。
1957年1月に黒田寛一(後の革マル派議長)、太田竜(一次分裂)、西京司(二次分裂関西派)らにより結成された
「日本トロツキスト連盟」が全ての源流である。同年12月には「日本革命的共産主義者同盟」へと改称。1958年7月に太田竜らが脱退、「日本トロツキスト同志会」を結成し、これが後のBL派へと繋がっていく。これを俗に「一次分裂」というが1959年8月に「二次分裂」が発生する。これは黒田派と関西派の対立によるもので、黒田らは除名され「革命的共産主義者同盟全国委員会」を結成する。これが後に更に分裂して中核派と革マル派になる。
1958年7月に太田竜らが脱退、結成した「日本トロツキスト同志会」は1959年1月に「国際主義共産党」に改称、更に3月に「第四インターナショナル日本委員会」と改称したものの8月に分解。この流れと関西派が合流して1960年11月に「第四インターナショナル日本支部・日本革命的共産主義者同盟」を結成した。その後1961年までに第四インター内部には太田派、西・岡谷派、青年インター派の三潮流が形成されたものの、1962年6月に「労働者階級解放闘争同盟」が結成され、翌年八月には結成されて間もない中核派へ合流する。1965年4月には太田派と西派の合同で「純トロ派」が結成され、これが西らの多数派と、太田らのBL派に繋がっていく。

社青同プロレタリア国際主義派は社青同から離脱し、1969年3月に国際主義共産学生同盟として発足した。

19680726
1968.07.26 キューバ革命記念日デモ




2009年3月15日 (日)

共産主義者同盟赤軍派&大衆組織 革命戦線全国委員会

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HP版ボリューム(E:) 共産主義者同盟赤軍派

 

【名称】共産主義者同盟赤軍派
【ヘルメット】赤地に「赤軍」。

共産主義者同盟諸派では最も知名度の高い党派だろう。

1969年6月「赤軍派通達」の発刊と同時に共産主義者同盟内の一フラクとして活動を始めたが、関東派から1969年7月2日付の「プロレタリア通信」内で『物理的な解体』を通告され、これに対して7月6日未明、後に蜂起派を結成するさらぎ氏を襲撃したが、同日中に関西派部隊は報復に遭い、塩見孝也氏など幹部は監禁されたが同月24日に脱出した。この際望月上史氏が転落し二ヵ月後に死亡した。翌月塩見氏らは自己批判書を提出するも除名され、28日に正式に赤軍派を結成した。

9月5日全国全共闘結成大会に於いて数にして三倍のブント連合派を打ち破って公然と姿を現わした。
このときの様子を赤軍派機関紙「赤軍」創刊第一号(1969年9月20日)より抜粋しよう。

(前略)
(意味がとりにくい部分があるがそのまま転載する)

 四・二八闘争の限界の止揚、それこそ、この全共闘の革命戦線への再編であり、この世界革命戦争を領導し抜く郡の建設であった。口先では世界革命を言いながらも内実は一国主義ソヴィエト主義世界革命戦争を言いながら内実はロシヤ革命、軍事を組織する党を言いながらも内実は統一戦線党、自然成長的党-この現代革命に於ける人民戦線左派に既にブンド中央派は陥り、実践的には世界革命第四の波に勝利しようとしていないのである。このブンド中央派以下八派総体が、仲よく肩を寄せ合いながら、古い殻を守ろうとしているのが「八派」に他ならない。
 大衆は敏感である。既に彼らは無言の内にこの事実を知っているそして、山本議長逮捕の情報は、この不安と動揺を更に一層拡大したのであった。この不安と動揺を未来への期待と飛躍へ、それこそ、我々赤軍派の登場であった。官憲の作るトンネル、そしてそこで武装解除された我々を一人一人、ラチしようとする卑劣な中央派。全大衆は自ら到達のし普遍性に到達しうる運動を要求し、歴史はこれを導く主体を創造する。この不変の法則は、我々の後退を許さなかったし、これを内在化した我々も後退はあり得なかった。
 扉をしめ、机を重ね武装して防備する中央派を、我々は赤軍を中心とした突進でこれを打ち破った
 そして、中央派の三度に渡る挑発を完膚なきまで粉砕した。戦闘が重なる度に、大衆の中から中央派にビンがとび始める。現代人民戦線派は革命的左派の固い意志一致の前に、退却せざるを得なかった。
 この強固な隊列は「蜂起貫徹、戦争勝利」のシコプレヒコール(原文ママ)を全大衆に捧げながら、拍手の中を演壇にまで行進したのであった。これこそ全共闘二万大衆して現代革命の新たな地平への転換を呼びかけた赤軍派の登場であり、将に歴史の一大転換点であった。
 全党派を領導してきたブンドの党内闘争は全党派-全大衆のものになり現代革命をめぐる人民戦線左派と革命的左派の闘いは始まったのである。

(後略)

何故か警察資料には全国全共闘での小競り合いが収録されていないので写真は掲載しないが、アサヒグラフ誌上ではブント連合派が追い詰められる写真が掲載されていた。

下は大菩薩峠事件と、ゲバスタイルで登場した幾つかの集会。

19691105
1969.11.05 大菩薩峠 塩山署より護送

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1969.11.05 大菩薩峠 福ちゃん荘前

19700428
1970.04.28 赤軍派もマスクをとれば………

共産主義者同盟赤軍派機関紙「赤軍 第1~3号」
Cimg1836

共産主義者同盟赤軍派理論誌「赤軍 8号」
Cimg1840

【名称】全日本革命戦線(準)全国委員会
【上部団体】共産主義者同盟赤軍派
【ヘルメット】赤地に「革命戦線」。

赤軍派の大衆組織。革命戦線全国委員会に発展的解消。赤軍派が地下に潜った後は公然の大衆組織として三里塚をはじめとする闘争に参加。機関紙は「革命戦線全国通達」→「革命戦線」→「赤い星」を辿る。

19700428_2
1970.04.28 赤軍派現れる!ふく面して集会に参加

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1970.05.29 全関東労学総決起集会 会場内で独自の行動をとる赤軍

全日本革命戦線(準)全国委員会 機関誌 「革命戦線 10号」
Cimg1839




2009年3月14日 (土)

日本共産党(革命左派)神奈川県常任委員会

番外編。
後に赤軍派の中央軍と日共革命左派の人民革命軍は「統一された赤軍」連合赤軍を組織することになる。
その結成以前に日共革命左派はゲリラを行っている。1969年9月3日の米ソ両大使館に対する火炎瓶投擲と、翌4日の愛知外相訪米訪ソ阻止を目的とする羽田空港での火炎瓶投擲は、日共革命左派の最初の実力闘争であった。

1969090418_2
1969.09.04 愛知外相訪ソ訪米警備 18番スポット

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1969.09.04 愛知外相訪ソ訪米警備 (C滑走路)火炎びん投てきのあと

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1969.09.04 愛知外相訪ソ訪米警備 逮捕者

ここから下は手持ちの機関紙誌類です。

日共革命左派機関紙「解放の旗」
Cimg1838


連合赤軍機関誌「銃火」創刊号
Cimg1841

連合赤軍機関誌「銃火」創刊号 付
Cimg1207




2009年3月12日 (木)

反帝全学連その3 日本社会主義学生同盟全国委員会派

この記事は2009年3月に執筆したものですが、HP・ブログの一時閉鎖及び再公開の際に、HPに移し、内容を大幅に加筆いたしました。

HPの加筆した記事をご覧ください。

ボリューム(E:) 共産主義者同盟[旧統一派]

https://sites.google.com/site/nagato0326/bund_home/kyutouitu

―――――――――――――――――――――――――――――

 

【名称】日本社会主義学生同盟全国委員会派
【上部団体】共産主義者同盟戦旗派
【ヘルメット】赤地に「社学同」。

19690118
1969.01.18  医学部屋上から投石 機動隊員の頭上へ

共産主義者同盟は60年安保闘争の後、大小様々な派閥に分裂したが、70年安保を前に日本マルクス・レーニン主義者同盟を結成したML派などを除いて再び共産主義者同盟を結成する動きが見られた。各派が再結集していく過程で最終的にマル戦派「共産主義者同盟(黎明)」と統一派「共産主義者同盟(統一委員会)」が1966年9月の「ブント統一再建六回大会」にて統一された共産主義者同盟となった。これを俗に第二次共産主義者同盟という。
この第二次共産主義者同盟は一つの組織になったもののマル戦派と統一派という大きな派閥を内包していた。その結果1968年3月の第七回大会で革命綱領を巡る理論的対立から統一派系と旧マル戦派系に再び分裂し共産主義者同盟の学生組織日本社会主義学生同盟の一角、全国委員会派を形成した。

正直二次ブントは全くと言っていいほど分からないので間違いがあればメール下さい。
写真は東大医学部屋上から投石する社学同。

2009年3月11日 (水)

反帝全学連その2 学生解放戦線

この記事は2009年3月に執筆したものですが、HP・ブログの一時閉鎖及び再公開の際に、HPに移し、内容を大幅に加筆いたしました。

HPの加筆した記事をご覧ください。

ボリューム(E:) 日本マルクス・レーニン主義者同盟   

https://sites.google.com/site/nagato0326/bund_home/bund_ml/ml

 

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【名称】学生解放戦線 SFL
【上部団体】日本マルクス・レーニン主義者同盟
【ヘルメット】赤地に白の縦線。横か前後に「SFL」、「FL」、「ML」。モヒカンヘルと呼ばれたらしい。

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1969.01.18 ガスバーナーを使った火煙放射器も現われ、警備車を襲った。(原文ママ)

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1969.01.18 大学生の知恵パチンコ攻撃

19700623623ml
1970.06.23 6.23総行動 火炎びんを持ち、鉄パイプで武装して会場を出発したML

上の2つは東大安田講堂事件時 工学部列品館にて。
60年安保の時の共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派(ML派)が独立したML同盟の学生組織。
東大安田講堂事件では工学部列品館を占拠。火炎放射器を戦闘に使用したり劇薬を投下したり更にはパチンコを飛ばしたりと様々な戦闘を行った。パチンコはヘリコプターをも脅かしたと警察資料にある。
毛沢東主義で、当時の旗には「毛主席万才」の文字が見える。Wikipediaでは「SLF」となっているが誤り。確かに「学生解放戦線」を英訳すれば「Student Liberation Front」となるが、当時の旗、盾、ヘルメットの写真は何れも「SFL」になっている。

速報 革労協反主流派拠点赤砦社に家宅捜索

革労協反主流派拠点赤砦社に家宅捜索。
昨年9月12日の米海軍横須賀基地に対する二発の迫撃弾攻撃に対するもの。

資料1

G・W入港に際する公然の抗議行動。

1222341359878


資料2

革命的労働者協会(解放派) 赤砦社「解放」第871号(10月1日付)より転載。

革命軍 在日米海軍横須賀基地に革命的迫撃弾攻撃を敢行9・12

革命軍より軍報が寄せられたので、これを公表する。

軍報

 わが革命軍は九月十二日、午後十時三十分、神奈川県横須賀市にある在日米海軍横須賀基地(在日米海軍司令部)に対して日米軍基地警備隊・警察治安部隊の厳戒態勢を突破し、二門の革命的迫撃弾攻撃を敢行、在日米軍中枢機能を徹底破壊-壊滅的打撃を強制した。
 この闘いは、反革命戦争の戦略兵器たる原子力空母「ジョージ・ワシントン(G・W)」の九・二五横須賀初配備(母港化)を実力で組織する革命的ゲリラ攻撃である。
 本戦闘は、二〇〇七年、米陸軍第一軍団前方司令部移転爆砕の在日米陸軍司令部・キャンプ座間攻略二・一二戦闘につづく、間断なきわが革命的健軍武装闘争の革命的精華である。
 米帝は、イラク労働者人民を大量に虐殺しつづけ、アフガニスタンへの米軍増派を目論み、今、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の「急変事態への軍事対応策(概念計画5029)」をもって、朝鮮反革命戦争の〝口火〟をきらんとしている。
 まさに「ジョージ・ワシントン」空母打撃群の日本初配備こそ、日米反革命階級同盟の強化をテコに、朝鮮反革命戦争突入をみすえたものである。
 わが革命軍は、日帝・自公政府によるまやかしの「空自イラク撤収」をみぬき、日米反革命階級同盟の強化-自衛隊海外派兵恒久化のための、海自インド洋派兵継続をなんとしても爆砕する。
 世界大恐慌の切迫下、帝国主義の暴力的世界支配と決死対決する全世界労働者人民と国際連帯し、日帝足下、本格的権力闘争の武装的飛躍を闘いとり、プロレタリア世界革命に勝利する。

 九月十二日 革命軍

大体、軍報が出る→次号で戦闘詳報が出るの流れです。
九・一二戦闘の戦闘詳報は次の10月15日発行(当時は毎月1日、15日発行。現在は週刊化)の「解放」872号上で見開きで発表されました。





2009年3月10日 (火)

反帝全学連その1 全国反帝学生評議会連合

この記事は2009年3月に執筆したものですが、HP・ブログの一時閉鎖及び再公開の際に、HPに移し、内容を大幅に加筆いたしました。

HPの加筆した記事をご覧ください。

ボリューム(E:) 革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)[労対派との分裂後は狭間派]

https://sites.google.com/site/nagato0326/lsy_home/lsy

ボリューム(E:) 革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会

https://sites.google.com/site/nagato0326/lsy_home/routai

ボリューム(E:) 全日本学生自治会総連合

https://sites.google.com/site/nagato0326/zenkyoto_home/zengakuren
―――――――――――――――――――――――――――――

 

【名称】全国反帝学生評議会連合
【上部団体】革命的労働者協会
【ヘルメット】青地に「反帝学評」。後ろに「プロ統」。70年代に入ると一時期「プロ統派」が散見される。

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1970.06.21 6.21中央集会 午前11時 反帝演壇占拠(明治公園)

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1970.06.22 反帝「宮下公園」集会

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1970.06.22 木製の楯を構えて機動隊突破を狙う反帝学評

 日本社会党の青年組織、日本社会主義青年同盟は60年安保闘争時には学生運動の中で一定の地位を占めるようになっていた。当時革共同が全学連を独占していたのに対して社青同、社学同、構改派の三派は三派連合を組み共闘態勢に入った。1962年5月、三派連合は改憲反対を叫んで自民党総裁室に座り込み全員逮捕された。この中には社青同系の東大教養学部の江田五月委員長(2009年3月現在の参議院議長、連合赤軍最高幹部永田洋子獄中死時の法務相)もいたと文献にはある。
 社青同内部には早い時期から意見の対立があり1960年頃から江田派、協会派、解放派が共存していたが、学生組織(社青同学生班)のヘゲモニーは早い時期から解放派がとっており社青同中央の決定に反ししばしば対立した。その後1965年3月、遂に解放派は「学生解放派の声明」を出し、公然と分派行動を行うことを宣言した。 その解放派の学生組織が反帝学評である。「プロ統」や「プロ統派」はプロレタリア統一戦線のこと。
ただし上部組織の革命的労働者協会の結成は1969年に入ってからである。

解放派理論誌「解放 7号」 
Cimg1842



2009年3月 9日 (月)

民青(日共)系全学連

この記事は2009年3月に執筆したものですが、HP・ブログの一時閉鎖及び再公開の際に、HPに移し、内容を大幅に加筆いたしました。

HPの加筆した記事をご覧ください。

ボリューム(E:) 日本民主青年同盟

https://sites.google.com/site/nagato0326/jcp_home/jcp_ldy

ボリューム(E:) 全日本学生自治会総連合

https://sites.google.com/site/nagato0326/zenkyoto_home/zengakuren
―――――――――――――――――――――――――――――

【名称】日本民主青年同盟
【上部団体】日本共産党
【ヘルメット】黄色か青色。適宜横に「全学連」など。

学生団体では最大で拠点校の数が半端ではない。基本的にゲバはしないとされているが、時々他の新左翼党派と武力衝突する。
他のセクトがゲバ棒といわれる角材を使う中で、民青のゲバルト部隊である正式名称「都学連行動隊」通称「あかつき部隊」は民主化棒と呼ばれる樫の木刀を用いた。武力衝突の中でも特に有なのは東京大学総合図書館封鎖の際に全共闘系の学生とゲバをした事件。なおヘルメットが青色のものはライトブルーに近く、「全学連」などの書き込みのあるものも散見する。
※このときの民青ゲバルト部隊の呼称については諸説あるが、ここでは東大全共闘本郷学生隊長の島氏の記述に基づいた。

で今も特筆するほどの変化もなく存続しています。しかしゲバはしませんのでHPには、

Attention

などと書いて「ゲバスタイル=暴力集団」と決めつけています。そんな彼らにもこんな時代がありました。



2009年3月 8日 (日)

革マル派全学連

この記事は2009年3月に執筆したものですが、HP・ブログの一時閉鎖及び再公開の際に、HPに移し、内容を大幅に加筆いたしました。

HPの加筆した記事をご覧ください。

ボリューム(E:) 日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派

https://sites.google.com/site/nagato0326/jrcl_home/jrcl_rmf

ボリューム(E:) 全日本学生自治会総連合

https://sites.google.com/site/nagato0326/zenkyoto_home/zengakuren
―――――――――――――――――――――――――――――

【名称】日本マルクス主義学生同盟革命的マルクス主義派
【上部団体】日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派
【ヘルメット】白地に鉢巻状赤線に「Z」。


1
1969.02.03 革マル派 アメ大侵入 A号アパート3階で検挙護送中

2
1969.02.03 革マル派 アメ大侵入 アメリカ大使館内、A号アパート3階屋上

19690203
1969.02.03 革マル派 アメ大侵入 アメリカ大使館正門前

19690903
1969.09.03 早大封鎖解除警備 大隈講堂屋上の最後の抵抗

19690903_2
1969.09.03 早大封鎖解除警備 大隈講堂 ガスよけに水中眼鏡まで用意して立てこもる学生(大隈講堂)

革マル派は中核派や解放派のとったような大規模な街頭闘争には殆ど参加せず、独立した立場で闘争を進めていた。しかし他党派解体路線に基づき拠点校に於いて他の新左翼党派を暴力的に排除したことや、東大安田講堂事件で敵前逃亡した(※)ことなどで非難の的となり、第二民青の名を取り多くの闘争から排除された。殊に敵前逃亡事件後の幾つかの事件(写真はその一つであるアメリカ大使館突入闘争)は「アリバイ闘争」と揶揄された。全国学生闘争に続く三里塚闘争にも参加しなかった。(正確には幾度か三里塚現地へ行っており、70年代初期の三里塚に於けるゲバスタイルを確認している。)

※東大安田講堂事件に於ける敵前逃亡
革マル派は兵力温存を口実に、部隊の大半を割り当てられた防衛拠点である法文二号館より引き上げた。その結果、法文二号館の陥落は早く(資料によっては完全無抵抗との記述も)、法文二号館から他の防衛拠点に対して、警察による直接的な催涙弾攻撃が可能となったとされる。

1971.06.23 革マル派「解放」 号外 一面 上部

1971.06.23 革マル派「解放」 号外 一面 下部


1971.06.23 革マル派「解放」 号外 二面 上部


1971.06.23 革マル派「解放」 号外 二面 下部

※落書きは私がしたものではありませんよ。入手時には既にありました。念のため。



2009年3月 6日 (金)

中核派全学連

この記事は2009年3月に執筆したものですが、HP・ブログの一時閉鎖及び再公開の際に、HPに移し、内容を大幅に加筆いたしました。

HPの加筆した記事をご覧ください。

ボリューム(E:) 革命的共産主義者同盟全国委員会

https://sites.google.com/site/nagato0326/jrcl_home/chukakuha

ボリューム(E:) 全日本学生自治会総連合

https://sites.google.com/site/nagato0326/zenkyoto_home/zengakuren

―――――――――――――――――――――――――――――

【名称】全日本学生自治会総連合
【上部団体】革命的共産主義者同盟全国委員会
【ヘルメット】白地に「全学連」。

【名称】マルクス主義学生同盟中核派
【上部団体】革命的共産主義者同盟全国委員会
【ヘルメット】白地に「中核」。横に「MSL」の他「反帝反スタ」など適宜スローガンを書き込んでいる。

1
1969.01.15 飯田橋事件 飯田橋駅前派出所

2
1970.06.23 第二安保総力戦 中核派部隊

3
1969.01.18 安田講堂事件時 法文二号館 中核派

中核派の名前の由来はマルクス主義学生同盟機関誌「中核」から。最初から革マル派のように自称していたわけではない。「中核派」の名称は本来的には学生組織の名だが、マスコミのインタビューに対し、後に内ゲバで殺害された本多書記長は、上部団体も「中核派」の名称で呼んで構わないと答えている。東大安田講堂事件では法学部研究室と安田講堂二階を占拠。
MSLはマルクス主義学生同盟「Marxist Student League」の略称。

勢力が大きい上に街頭闘争を重視するという非常に行動的な活動を行った為に60~70年代の街頭闘争の写真で中核派の旗を見ないことはないといって良いほどの大量動員を行い、結果として多数の逮捕者を出した。
学生運動が下火になった後も勢力を保ち続け、三里塚闘争などでも支援党派で中心的な役割を担い活躍している。



2009年3月 5日 (木)

反戦青年委員会各派

この記事は2009年3月に執筆したものですが、HP・ブログの一時閉鎖及び再公開の際に、HPに移し、内容を大幅に加筆いたしました。

HPの加筆した記事をご覧ください。

ボリューム(E:) 反戦青年委員会

https://sites.google.com/site/nagato0326/labor_union_home/hansenseineni

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反戦労働者組織。元々は日本社会党系で1965年に結成された。
正式名称を「日韓条約の批准を阻止し、ベトナム戦争に反対する全国青年委員会」という。
略称は「全国反戦青年委員会」であるが、単に「反戦青年委員会」と呼び、全国組織としての反戦青年委員会を「全国反戦」というのが一般的である。
全国反戦の下には職場別・地域別に反戦青年委員会が結成されたが、その一つ一つが各党派の影響が及ぶにつれて分裂し、各党派系の反戦青年委員会があった。
それらの反戦青年委員会は各党派の労働者大衆組織との位置づけがなされ、学生で言うところの全学連的存在となった。

【名称】反戦青年委員会
【上部団体】革命的共産主義者同盟全国委員会
【ヘルメット】白地に「反戦」。
Photo
1969年の羽田闘争二周年デモにおける中核派系反戦青年委員会。

【名称】反戦青年委員会
【上部団体】日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派
【ヘルメット】白地に鉢巻状赤線に「反戦」。

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1970年の反安保連帯デモにおいて動労と共にデモを行う革マル派反戦青年委員会。

【名称】反戦青年委員会
【上部団体】革命的労働者協会
【ヘルメット】青地に「反戦」。

Photo_3

1970年の全軍労闘争連帯沖縄闘争勝利安保粉砕労学総決起集会後のデモにおける解放派反戦青年委員会。
この隊列には「プロレタリア…」、「…労協」、などもあるが不鮮明なため収録しなかった。

【名称】城北反戦青年委員会
【ヘルメット】白地に「城北反戦」。

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国際新報181号にて確認。
大阪で結成された反戦青年委員会で毛沢東主義派系セクトの影響下である。



2009年3月 3日 (火)

労働組合その1 全沖縄軍労働組合

この記事は2009年3月に執筆したものですが、HP・ブログの一時閉鎖及び再公開の際に、HPに移し、内容を大幅に加筆いたしました。

HPの加筆した記事をご覧ください。

ボリューム(E:) 労働組合等

https://sites.google.com/site/nagato0326/labor_union_home

記念すべき第一弾は、米軍占領下の沖縄に於いて戦闘的な運動を進めた全沖縄軍労働組合、略称「全軍労」のヘルメットです。個人的に最も好きな組合とヘルメットです。

【名称】全沖縄軍労働組合
【ヘルメット】色は不定。「全軍労」。

 

ヘルメットの色は黒地、黄色地に鉢巻状黒線、赤地、白地に鉢巻状黒線など多様。ただし白地に鉢巻状黒線の全軍労が最も頻繁に見受けられる。全軍労は1963年結成の沖縄の米軍基地内で働く労働者の労働組合で、沖縄本土復帰運動の中核的存在であった。殊に1968年11月20日には基地撤去を全軍労三役会議内ではじめて打ち出し、23日にはB52(核兵器搭載可能な爆撃機。同月19日に嘉手納基地に於いて墜落炎上。) ・原子力潜水艦・核兵器の三つ撤去を求めた。1971年5月19日にはゼネストを決行。67単組約6万1000人が参加した。同日には県民決起集会が開かれ6万人が集結し、右翼団体や米兵と衝突を繰り返した。
1968年から共闘関係にあった全駐労と全軍労は共闘会議を持ち共通要求を獲得する為に闘ってきたが、1976年から具体的な組織統一の作業を進めていた。1978年遂に共闘会議を発展的に解消する形で全軍労は日本本土の基地内で働く労働者の労働組合である全駐留軍労働組合(全駐労)と合流し、全駐留軍労働組合沖縄地区本部(全駐労沖縄地本)を形成した。しかし、1996年8月には雇用の維持の立場から一方的な基地の削減に反対して全駐労沖縄地本が分裂、全沖縄駐留軍労働組合(沖駐労)を結成した。2006年に沖縄駐留軍労働組合に改称した。
2006年現在の組合員数 全駐労:約6500人 沖駐労約380人。

【名称】全沖縄軍労働組合牧港支部
【上部団体】全沖縄軍労働組合
【ヘルメット】白地に「牧港」。

【名称】全沖縄軍労働組合牧港支部青年部
【上部団体】全沖縄軍労働組合
【ヘルメット】白地に「牧青」。

浦添市の面積の14%を占める広大な牧港補給基地(キャンプ・キンザー)で働く全軍労組合員が形成した。
全軍労牧港支部青年部は全軍労の中でも非常に戦闘的な部類に属した。上のような完全武装で米軍基地内を米兵と衝突しつつデモをするというのは例の無いことであったが、それをやり遂げた為に非常に有名になった。




2009年3月 2日 (月)

ゲバスタイルQ&A

この記事は2009年3月に執筆したものですが、HP・ブログの一時閉鎖及び再公開の際に、HPに移し、内容を大幅に加筆いたしました。

HPの加筆した記事をご覧ください。

ボリューム(E:) ゲバスタイル総説

https://sites.google.com/site/nagato0326/gewalt_style

なるべく読んでもらえるとありがたいかも。

Q.1 そもそもゲバスタイルって?
A.1 ヘルメットにタオルによる覆面が基本。オプションでスローガン入りのゼッケンや角材、安全靴、そろいのヤッケなどなど。

Q.2 見たこと無いけど?
A.2 現在街頭で普通に被っているのは革マル派、革労協現代社派、革労協赤砦社派の各全学連・反戦青年委員会だけ。集会会場や周辺でなら、マル学同革マル派、共産同(統一委)、共産同蜂起派、中核派中央派全学連、学生組織が被ってます。特に革労協二派の関連団体は多いです。両派合わせて4団体を確認(但し二派の分裂に伴って分裂したものは数えず)。その他にも法政大文化連盟も黒ヘルを被っている方が居るようです。昔は沢山の団体がかぶってたんですけどね…。
※追記:一般的に右翼とされる団体にも被っているところがあります。統一戦線義勇軍や大東亜倶楽部など。

Q.3 いつのヘルメットを紹介するの?
A.3 原則として現在も使用されている物は紹介しません。基本的に紹介するのは60-80年代に使用されたヘルメットだけです。現在のを紹介すると「権力への売り渡し」などと誤認される恐れがあるからです。彼らは写真を撮られることを極度に嫌います(機関紙に載ってることは載ってるけどね)から、見かけても写真は撮らない様にしましょう。100%怒られます。

Q.4 家にもヘルメットがあった!
A.4 間違っても捨てないで下さい。よろしければ写真を撮って送っていただけるとありがたいです。またお譲り戴ければ文字通り涙物です。ヘルメットについて何か質問がございましたら、解る範囲でお答えいたしますのでご連絡ください。いずれの場合も右端のメールフォームをご活用ください。

後は追々書いていくことにして…。

ヘルメット一覧 1970.02.01現在

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