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2009年5月28日 (木)

全国自治会共同闘争会議諸派その3 民主主義学生同盟

改訂版の記述はこちらへ

HP版ボリューム(E:) 日本のこえ

 

【名称】民主主義学生同盟 (旧民学同右派)
【上部団体】日本のこえ同志会
【ヘルメット】緑地に「民学同」。

春日派が社革新を離脱した後、社革主流派の内藤派は1962年8月青年学生運動革新会議を改組して日本共産主義青年同盟準備会を結成した。翌年1963年9月社革新準備会は「準備会」を取り去って社会主義革新運動を発足させ、内藤・春日両派は正式に分離した。
一方で1963年7月、安保反対・平和と民主主義を守る全国学生自治会連合(平民学連)から構改派系が離脱し、民主主義学生同盟が設立され、翌1964年7月部分的核実験停止条約に賛成したことで党を追われた志賀義雄、中野重治、鈴木市蔵らによって結成された日本のこえ同志会派の学生が流入し結果的に民学同は日本のこえ同志会の指導下に入ることになった。

1966年7月構改三派(社会主義革新運動、統一社会主義同盟、日本のこえ同志会)の間で新しい前衛組織結成の話し合いが持たれたが、三派それぞれの中で賛成派反対派が入り乱れた。
結果として1967年2月社会主義革新運動と日本のこえ同志会多数派と統一社会主義同盟の一部(社会主義統一有志会)が参加して共産主義労働者党が結成され、内藤知周議長が選出された。
従って民主主義学生同盟も共労党系と日本のこえ系の2系列に別れ、前者は民学同(左派)、後者は民学同(こえ派)と称せられていた。
1967年10月、日本のこえ同志会から中野重治らが、日共の統一促進と言う当初の目的から逸脱したとして組織的脱党を行い、日本のこえ同志会は志賀派を中心とする少数派に転落した。
なお民学同(左派)は1969年3月プロレタリア学生同盟と改称された。

緑地に「民学同」というのは私がアサヒグラフ上で写真を確認したものであるが、全学連各派においては白地に「民学同」となっている。



2009年5月20日 (水)

訃報:太田竜氏死去

河北新報より転載。

太田竜氏死去 社会活動家
 太田 竜氏(おおた・りゅう=社会活動家、本名栗原登一=くりはら・とういち)19日午前5時33分、肺炎のため東京都豊島区の病院で死去、78歳。サハリン(樺太)生まれ。自宅は東京都文京区白山5の35の12。葬儀・告別式は行わず、後日お別れの会を開く。
 57年、中核派や革マル派などの母体となった革命的共産主義者同盟(革共同)結成に参加した。

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特にコメントはありませんけども。

関連:第四インター
プロレタリア軍団





2009年5月14日 (木)

全国自治会共同闘争会議諸派その2 社会主義学生戦線

改訂版の記述はこちらへ

HP版ボリューム(E:) 統一社会主義同盟

 

【名称】社会主義学生戦線
【上部団体】統一社会主義同盟
【ヘルメット】緑地に「フロント」。

構改派に特徴的な緑のヘルメットの代表格である。
傾向として70年代に入ると「フロント」の字が段々縦に大きくなっていく。

1961年7月、日共第8回大会に於いて、日共中央は日本独占とアメリカ帝国主義の「二つの敵」を打倒目標に据えた。既に綱領上の論争は鋭く対立しており、幹部会員の春日庄次郎や内藤知周らが脱党し社会主義革新運動準備会を結成した。しかしこれは構造改革論争と前衛党結成問題をめぐり分裂。
1962年5月春日派は社革新準備会を離脱、統一社会主義同盟を結成した。この統一社会主義同盟は同月中に下部学生組織として社会主義学生戦線を結成した。

19700614_614
1970.06.14 6・14大共同行動 道路片側一ぱいのフランスデモ -青山通り-

19700428
1970.04.28 4・28沖縄斗争勝利、安保粉砕大統一集会 無題



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