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2010年9月 8日 (水)

【番外】 1968-1972年ごろの革マル派機関紙「解放」

1968-1972年頃の革マル派機関紙「解放」を沢山(126-165号(131-133号欠) 205-229号(215号欠))入手する機会に恵まれたので、その中から興味深い物を公開したいと思う。

本来機関紙というごくごく普通な品物は入手したからといってこういう風に公開することはない。
しかしながら革マル派は学生運動最盛期から日本の左翼界の主要な位置を占め、また現在に至るまで勢力を維持しており、その存在を無視することは出来ないにも拘らず、革マル派「解放」は中核派「前進」や第四インター「世界革命」などの様に縮刷版が発行されておらず、過去の機関紙をみるのが他派と比べて容易でないのだ。

※実はかつて革マル派も縮刷版のようなものを限定一部(!)で発売したことがあった。ところがそれは縮刷版ではなく、今までの「解放」の実物を合本にしたもので100万円以上の値が付けられていた。
…うん、正直欲しいよね。おくところ無いけど。

と、いうわけで公開しようと思うのだが、こういうことをやってて心配になるのはやはり「スパイ」扱いをされないかということだ。
まぁそうは言ってもビラとかの入手が困難なものを公開するのではなく、極論を言えば100万円出せば確実に入手できるものなので問題は無いと考えている。ましてや40年前のものなのでなおさら構わないと思っている。

さて本題に戻ろう。今回扱うのはブログの本旨でもあるゲバスタイルに関することと、その他なんとなく目にとまったものである。スキャナを使えばいいのだが面倒くさいのでコンデジで接写した。
(接写して気付いたのだが、このコンデジは古い。ホントに古い。近々お金を貯めて買おうと思うがいつになるやら。)
デジカメを使ったのは、スキャナを使うのが面倒なのも確かに理由のひとつなのだが、紙が当然の事ながら経年劣化でボロボロになっており、とても家庭用のスキャナの読み取り面にあてがう作業に耐えられそうに無かったというのもまた理由である。
ちなみに閲覧後の机には「どこの死海文書だよ!」ってくらい破片が散らばっていた…。

Cimg2354

さて普通に掲載したいのは山々なのだが、ココログは画像一枚当たり1MBという上限があるので縮小しなきゃいけない。しかしこれが面倒なので、Picasaにアップした画像にリンクをすることで済ませたいと思う。

①機関紙記載の組織名称の変化

写真に写っているのは126号(1968.11.15)~129号(1969.01.01)までの四部のタイトル部である。
注目すべきは127号の「滞納紙代の一掃を!」ではない。

拡大した画像を見て欲しい。

126号、127号の名称は、
「日本革命的共産主義者同盟 全国委員会 革命的マルクス主義派」
なのだが、128号からは、
「日本革命的共産主義者同盟 革命的マルクス主義派」
となっている。
これが地方の一支部の機関紙記載の組織名が変わったくらいなら、(元々革共同全国委が分裂して出来た組織だから)、「組織名称の表記揺れを全国的に統一でもしたのかな?」くらいにしか思わないが、中央の機関紙だから、それなりの理由があるんじゃないかと目を通してみたが特別な記述は無かった。

「正式名称なんて特別意味は無いんじゃないか?」という意見もあるだろうが、それならそもそも「全国委員会」を消す必要が無いわけで…。
この辺の事情に通じてる方は教えてくださいな。

②伏字

一部伏字になっている。戦時中のブルジョア・マスコミは伏字にする時は「○」だったなってくらいの話で特に言及した意味は無い。
なお今回引用した画像は1969.11.21 革マル派 「解放」 号外 一面下部のものである。

③反戦高連のヘルメット

反戦高連といえば革マル派の高校生組織であり、以前に当ブログで紹介したところ様々な情報が寄せられた。

まずは機関紙に載っていた写真を見て欲しい。

お分かりいただけただろうか…。

ちょっとよってみよう。

写真中央部の人物のヘルメット(人物は反対を向いているので、ヘルメット後部ということになる。)には、先の記事で滔天さんから寄せられた情報

―――――――――――――――――――――――――――――

あと、反戦高連のメットについて、横浜ならばZにYを重ねたと書きましたが、横浜の高連は東京ブロックに分けられ、Zに重ねた文字はTだったと、横浜の高連OBから聞いたことを思い出しました。「あれ、Yじゃないのか」とまぜっかえしたものでした。

投稿: 滔天 | 2010年6月29日 (火) 17時06分

―――――――――――――――――――――――――――――

にあった、「ZにTを重ねたマーク」が見えるのだ。

わかりにくいようなので、その部分を加工した。

Tを強調した画像

Zを強調した画像

写真真上の矢印でページを送って見ると、わかりやすいと思う。

今回纏まった数の「解放」を手に入れたが、反戦高連の写真は少なく、またあってもかなり引いた画像か、後ろから写した物が多い。これは滔天さんの指摘にあった、

―――――――――――――――――――――――――――――

反戦高連のメットに話を戻しますが、高校名は表記しませんでした。69年だったか、各都道府県教育委員会が、高校生の政治活動を禁じる5項目ほどの通達を出し、厳しい処分で臨んだからです。一方、革マル系全学連のメットは、後部に大学名を書いていたはずです。

投稿: 滔天 | 2010年6月25日 (金) 21時46分

―――――――――――――――――――――――――――――

という事情によるものではないかと思われる。

④国労のヘルメット

国労のヘルメットについても、先の反戦高連の記事内で滔天さんから情報を戴いている。抜粋して寄せられた情報を以下に整理する。

―――――――――――――――――――――――――――――

ヘルメットの下部外周に巻いた帯は、全学連並びに反戦高連は「赤」動労が「青」、国労が「黒」と決められていました。

投稿: 滔天 | 2010年4月24日 (土) 10時45分


国労のメットは、正面に「国労」とだけ。脇に「反合理化」とあった記憶もありますが、定かではありません。あと、後部には組合の支部名を書いていたかもしれません。
労線なので、反帝・反スタとは記していなかったことだけは、記憶にあります。

投稿: 滔天 | 2010年6月25日 (金) 21時21分


追伸 うろ覚えですが、革マル系の国労、動労は、「反合理化」と、「マル生粉砕」のスローガンをメットに書いていたような気がします。マル生とは、経営側と右翼労組・鉄労による生産性向上運動のことです。

投稿: 滔天 | 2010年6月25日 (金) 21時36分

―――――――――――――――――――――――――――――

今回入手した「解放」からは二種類の国労と思しきヘルメットを見出すことが出来た。

一つ目は、白地に鉢巻状黒(?)線に「国鉄反戦」のヘルメット(1970.07.15 「解放」 165号 三面)

二つ目は、白地に鉢巻状黒(?)線に「国労」のヘルメット(1971.12.25 「解放」 217号 一面)

一つ目の方は存在するか知らないけど「国鉄反戦青年委員会」で二つ目こそが「国鉄労働組合」のヘルメットかとも思ったのだが、「国鉄反戦」のキャプションが「国鉄労働者」ではなく「国労労働者」であることが引っかかるのだ。先頭のメット部隊が国鉄反戦でその後ろのメットを被っていない人が国労労働者ということか。私の間違いですね。
何れの写真も革マル派国鉄委員会名義の記事内で使われている。

⑤初期の内ゲバ

横国大富士見寮における革マル派活動家水山敏美君殺害に関する記事である。(1971.11.15 革マル派「解放」 213号)
写真は四枚ほどあるので、そのまま写真真上の矢印を送って見て欲しい。

なおこの時点での党派闘争における革マル派の死者は前年の海老原君(中核派による)と町田君(人民党=日共によるとされる)の2名をあわせた3名である。

⑥革共同第三次分裂

これも特に意味は無い。単純に革マル派自身が「革共同第三次分裂」という用語を使ってたんだなぁと思っただけ。(1972.01.15 革マル派「解放」 219号)

⑦連合赤軍に関する革マル派の見解

これも写真は三枚あるので、そのまま写真真上の矢印を送って見て欲しい。(1972.04.05 革マル派「解放」 227号)
拡大すれば本文が読めるはず。

⑧早稲田大学政治経済学部自治会再建の記事

僕の認識では法学部が民青のほかは全部革マル派系自治会で、政経は空席だったと思ったが、再建は一応しているようだ。(1972.02.05 革マル派「解放」 221号)

⑨スト共闘のヘルメット

写真左側の、デモ隊の写真をとっている人の直ぐ右に覆面をしているデモ隊員の正面が写っているが、「スト○…」と書いてあるように見える。キャプションにある「スト共闘」かと邪推。(1972.03.25 革マル派「解放」)

⑩官公労のヘルメット

写真中央の旗「沖縄官公労 農林支部」の旗手のヘルメットを見ると「官○…」と書いてあるように見える。

他にも色々あるけど眠いので寝ようと思います。解放に関しては34枚の写真がフォトアルバムに上げてあるので良かったら見てください。

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コメント

革共同革マル派の正式名称の変更がいつ頃なのかは、今回ようやく判明しました。ご報告有難うございます。
そもそも62年三全総に於いて路線違いが明確化し、翌63年には政治局少数派が新たな組織を旗揚げされたわけですが、それから五年余り経過した68年には着実に組織強化が行われ全国委員会の分派闘争段階から一区切り付いた、つまり革共同の分派であるところの全国委員会の更に分派というスタンスからの転換かともとれます。
全国委員会多数派は「ブクロ派」という、もはや「プチブル雑派」の一つに過ぎず、当時諸闘争の高揚を尻目にネグレクトや敵対的介入、他党派解体を明確化したのもそろそろこの頃といえるでしょう。(早大や東大での解放派とのテロル応酬、東大法文館屋上からの「敵前逃亡」)
ちなみに革マル派議長の正式職名は「日本革命的共産主義者同盟全国委員会議長」であり、革マル派内部の機関として「全国委員会」があり煩雑を避けたこと、或いは議長職は黒田寛一氏に一身専属するポストであり中核派メンバーによる僭称を認めないというスタンスをとった、というのもあるかもしれないと思います。

ノンポリ労働者さん

情報提供ありがとうございます。
そもそも正式名称の変更があったことすら知らなかった(元から日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派だったと思ってた)ので今回の発見に関して情報を持っていませんでした。

>全国委員会の分派闘争段階から一区切り付いた、つまり革共同の分派であるところの全国委員会の更に分派というスタンスからの転換かともとれます。

なるほど。つまり「全国委員会」名称の撤廃は、もはや革マル派は全国委員会内の一派閥では無く、革共同の正統な末裔であるとの主張の下に行われたということでしょうか。
確かに納得のいく、というか、革マル派らしい行動に思えますね。

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