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2011年11月24日 (木)

沖縄返還協定批准阻止闘争から40年―中村警部補の慰霊碑を訪ねる

この記事は2011年11月に執筆したものですが、HP・ブログの一時閉鎖及び再公開の際に、HPに移し、内容を大幅に加筆いたしました。

HPの加筆した記事をご覧ください。

ボリューム(E:) 中村警部補の慰霊碑を訪ねる

https://sites.google.com/site/nagato0326/1971-okinawa

1971年11月14日の渋谷暴動事件から、今月で40年が経った。渋谷暴動の話を初めて聞いたのは共産趣味の世界に入る前、いつかは定かではないが父から聞いた。

どんなに遅くとも小学生の時であったと思う。他愛もない話をしていて話が将来のことに及んだ。父は今は普通のサラリーマンだが、実際は父の将来の夢はなんだったのかと聞くと、父は「ハワイの新聞記者」と答えた。
奇妙な答えである。
父が言うには新聞記者になりたかったのだが、1971年の渋谷暴動事件の際、火炎瓶を投げつけられ火達磨になってのた打ち回る機動隊員をテレビカメラは平然と追いかけており、消そうともしなかったことに失望したというのである。だから平和(そう)なハワイの新聞記者になりたいと。まぁハワイの件は冗談だろうけど。

父が言うには「学生側であろうと機動隊員であろうと、火達磨になって苦しんでいる人間を傍観するというのは人間性に問題がある」と。私も尤もだと思う。

これを「きれいごとだ」という人もあるかもしれない。なるほど確かにこの世界に入ってから機動隊員がどのような仕打ちをした(している)かとかはよく聞くことであるし、それによって嫌いになるのも分からないではない。だが、それでも私は火達磨になって苦しむ人が目の前に居れば何とかして消そうとするのが人間であろうと思うし、それに本来中立であるべきマスコミが手を出したとて非難される筋合いはないと思う。
後年ピューリッツァー賞を受賞したスーダンの少女の写真で物議を醸したのと同様の問題であろう。もっとも飢餓の問題は一度手を差し伸べても解消されないが、火達磨になっている機動隊員は一度消して適切な救護が施されれば足り、継続的な努力による問題解消は必要がないが。

このことについて論争するつもりはない。何と言われようと目の前で火達磨になっている学生や機動隊員が居れば私は消火に努めるのが人間であると思うし、それに反対するような輩と話すつもりはない。お引き取り戴きたい。

父がテレビで見たという火達磨の機動隊員が中村警部補であるかどうかはわからない。だが中核派が「機動隊せん滅」を唱え、若い警官が焼き殺されたという事実があり、その研究に携わる人間として一度は中村警部補の慰霊碑に手を合わせたいと思って今回、慰霊碑を訪れた。

さて、本題に入ろう。
慰霊碑を訪ねようと思ったのは現在も指名手配中の活動家のポスターに小さく慰霊碑の写真が載っていたからで、それまではその存在すら知らなかった。

実際インターネットで調べても慰霊碑の場所はわからない。個人ブログに載っていた日記から渋谷のお米屋さんの近くにあるということまではわかったのだが。
場所がネットで調べてもわからないとなると、訪ねるだけでなく場所をネット上で公開しなくてはいけない気がしてきた。

そこで過去の新聞記事を探したところ、中村警部補が襲撃されたのが渋谷区の神山町であること、慰霊碑の土地を提供したのが付近のお米屋さんだということまでわかったので検索したところお米屋さんが特定でき、Googleのストリートビューで慰霊碑の確認ができた。
場所は東京都渋谷区神山町11-10 NHKのセンター下の交差点と観世能楽堂のほぼ中間にある神山町東の交差点にあるローソンの向かいの精米店脇である。

Dsc_1697
写真の精米店の右側、クロネコヤマトの看板の辺りにある。

Dsc_1702_kai
道の反対側から慰霊碑を臨む。高さは50cmに満たない程の小さなものである。

Dsc_1682
慰霊碑。正面の碑文は不明。沢山の献花をどけるのは憚られたので。

Dsc_1707
慰霊碑全景。

Dsc_1705
横の碑文。

中村警部補のご冥福をお祈り申し上げます。

※訪問される方へ
意外と車の往来が激しい道路で歩道もないので、他の通行者や自動車等への配慮をお願いします。また事故に遭わないよう呉々も気を付けてください。

2011年11月 7日 (月)

資料紹介-もののべながおき氏日本共産党復党申請書&復党確認書(新規取得資料)

もののべながおき(物部長興)の日本共産党に対する復党申請書及び復党確認書を公開する。

恐らく日本共産党の内部資料に類するものと思われるが、書かれてから相当の期間が経過していること、当該人物が故人であること、戦後の日本共産党混乱期に関する資料であり貴重なものと思われること等の理由から公開する。

日本共産党の混乱期とは何のことか、と言った類のことはwikipediaの日本共産党の項を見て戴ければ大体把握できると思う。

当該人物は、復党申請書添付の経歴書等から照らして、後にベトナム反戦ちょうちんデモの会を組織したもののべながおき氏とみて間違いない。

氏の略歴についてはデジタル版 日本人名大辞典+Plusの記述を参照して戴きたいが、本資料はこれに記載されている氏の日本共産党との関係に関しては食い違う点もあることを御留意戴きたい。

【日本共産党への復党申請書】

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復党申請書はA4版のレポート用紙に書かれており、昭和31(1956)年1月13日付となっている。

内容は日本共産党中部地区委員会宛てで、物部氏がかつて≪1949年6月頃≫確立に尽力した細胞であり、氏の除名前の所属であり、氏の除名と同時(期)≪1951年7月≫に一度解散処分になり(内容を読む限り別の細胞に統一されたらしい)、後に再建された細胞を所属組織(復党確認書記載の表記による)として復党を申請している。(≪≫内は本申請書添付の「経歴書」(詳細後述)による。)

申請書の執筆者は当該細胞の構成員であるが、「代」とだけあり、これが当該細胞の代表者を意味するのか、或いは当該細胞の長の代理を意味するのかは不明。

この復党申請は当該細胞の細胞会議に於いて確認された復党への承認を、上部機関である東京都中部地区委員会に対して求めたものであり、また既に口頭ではこの件について報告しており、先に行われた党内の調査に於いても党員の一人としてカウントされているようである。

以上のようなことから、本申請書は極めて形式的なものであることが分かる。口頭で了解を取っただけなのに、物部氏の存在が党の調査に既に算入されていることから、上部の反対が予定されていないことが推測されるからである。つまり氏の復党は特段の異議が生じようのないありふれたものとして扱われていたように見受けられるのである。

即ち、物部氏は、党の混乱の収拾が開始された1955年7月の六全協以降、党の方針として統一を進める中で、分裂によって除名され、或いは党を去った人々を再び糾合する大きな流れの中で復党した多くの党員の一人に過ぎないということであろうと思われる。

なお、本申請書にはB5版原稿用紙3枚に亘る物部氏の「経歴書」が糊で添付されていた。これらについては、個人情報としての色彩が濃いものであることから、今回の公開は見合わせた。

【日本共産党からの復党確認書】

Photo_2

本確認書は、A5版より一回り小さい位の大きさの藁半紙で、復党確認書のフォーマットがガリ版で刷られており、それに必要事項等を書き入れている。1955年1月17日付になっているが、これはフォーマットを訂正していないためで、正しくは1956年であろう。

地区委員会が「一九五五年」と単年のフォーマットを印刷して用意してあったことからもこの頃の復党者が多かったことが窺える。

【復党申請書添付の経歴書】

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