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2011年11月 7日 (月)

資料紹介-もののべながおき氏日本共産党復党申請書&復党確認書(新規取得資料)

もののべながおき(物部長興)の日本共産党に対する復党申請書及び復党確認書を公開する。

恐らく日本共産党の内部資料に類するものと思われるが、書かれてから相当の期間が経過していること、当該人物が故人であること、戦後の日本共産党混乱期に関する資料であり貴重なものと思われること等の理由から公開する。

日本共産党の混乱期とは何のことか、と言った類のことはwikipediaの日本共産党の項を見て戴ければ大体把握できると思う。

当該人物は、復党申請書添付の経歴書等から照らして、後にベトナム反戦ちょうちんデモの会を組織したもののべながおき氏とみて間違いない。

氏の略歴についてはデジタル版 日本人名大辞典+Plusの記述を参照して戴きたいが、本資料はこれに記載されている氏の日本共産党との関係に関しては食い違う点もあることを御留意戴きたい。

【日本共産党への復党申請書】

Photo

復党申請書はA4版のレポート用紙に書かれており、昭和31(1956)年1月13日付となっている。

内容は日本共産党中部地区委員会宛てで、物部氏がかつて≪1949年6月頃≫確立に尽力した細胞であり、氏の除名前の所属であり、氏の除名と同時(期)≪1951年7月≫に一度解散処分になり(内容を読む限り別の細胞に統一されたらしい)、後に再建された細胞を所属組織(復党確認書記載の表記による)として復党を申請している。(≪≫内は本申請書添付の「経歴書」(詳細後述)による。)

申請書の執筆者は当該細胞の構成員であるが、「代」とだけあり、これが当該細胞の代表者を意味するのか、或いは当該細胞の長の代理を意味するのかは不明。

この復党申請は当該細胞の細胞会議に於いて確認された復党への承認を、上部機関である東京都中部地区委員会に対して求めたものであり、また既に口頭ではこの件について報告しており、先に行われた党内の調査に於いても党員の一人としてカウントされているようである。

以上のようなことから、本申請書は極めて形式的なものであることが分かる。口頭で了解を取っただけなのに、物部氏の存在が党の調査に既に算入されていることから、上部の反対が予定されていないことが推測されるからである。つまり氏の復党は特段の異議が生じようのないありふれたものとして扱われていたように見受けられるのである。

即ち、物部氏は、党の混乱の収拾が開始された1955年7月の六全協以降、党の方針として統一を進める中で、分裂によって除名され、或いは党を去った人々を再び糾合する大きな流れの中で復党した多くの党員の一人に過ぎないということであろうと思われる。

なお、本申請書にはB5版原稿用紙3枚に亘る物部氏の「経歴書」が糊で添付されていた。これらについては、個人情報としての色彩が濃いものであることから、今回の公開は見合わせた。

【日本共産党からの復党確認書】

Photo_2

本確認書は、A5版より一回り小さい位の大きさの藁半紙で、復党確認書のフォーマットがガリ版で刷られており、それに必要事項等を書き入れている。1955年1月17日付になっているが、これはフォーマットを訂正していないためで、正しくは1956年であろう。

地区委員会が「一九五五年」と単年のフォーマットを印刷して用意してあったことからもこの頃の復党者が多かったことが窺える。

【復党申請書添付の経歴書】

1頁目

1

2頁目

2

3頁目

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コメント

リンク先の「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」では、「戦後,共産党に入党するが,昭和30年党中央を批判して除名」とありますが、この文書によりますと、氏は50年問題のさなか除名になり、1955年(昭和30年)~56年にかけて党に復帰したことになっていますね。底本はレファランスブック(それも講談社刊)ですから、それほどいい加減な取材・編集による仕事ではないと思いますので、ここまで食い違うと、失礼ですが史料批判というか文書の出所が気になるところです。

さて、「氏の復党は特段の異議が生じようのないありふれたものとして扱われていた」ということは、「党の統一回復」という6全協後の中央的な課題からすれば自然なことでしょうが、下部ではいろいろ混乱が続いたともいわれていますので、少し意外の感を覚えました。

小学館刊の日本現代史シリーズに「昭和の歴史全10巻」があるのですが、その第9巻・柴垣和夫著『講和から高度成長へ』に、六全協による統一回復の様子について次のような記述があります。
>さらに統一の回復が中央レベルで内密裡にすすめられ、六全協決議の形で突如示されたために、寝耳に水の一般党員には激しいショックを与えた。昨今まできびしい、「分派闘争」の相手だった人物と「和解」するのは、簡単なことではなかった。多くの下部組織では、以後数年にわたって混乱がつづいたのである。(p.125)

物部氏は一つの例ですが、個々の党員間の信頼関係はともかく、党籍回復といった手続き的な問題は党中央のイニシアチブで迅速に解決されていったということでしょうか。

郡山さん

コメントありがとうございます。ご指摘の通り、講談社の本とここまで大きく食い違う資料ですと、資料自体の信憑性が疑われるのは当然のことと思います。
私は本資料を社会運動系雑誌の編集に関与している古書店で購入しました。この資料は雑然と積まれたビラ等の資料(中核派や60年安保関係など物部氏の旧蔵品とは考えにくいものを含む)の中から探して購入したのですが、購入の際、この資料の出所については特別質問はしなかったのですが、「氏の蔵書を処分した際に出てきたんじゃないかな」とは言っていました。
また、偽造されたものとも考え難いように思いましたのでそのまま掲載しました。
それでも疑念が生じるのは当然のことでありますので、復党申請書に添付された経歴書(B5版で3枚)をpicasaに個人名等については修正を入れた上でアップロードしましたのでご確認ください。

私が本文中に書いたことは資料から感じたことで、様々な資料に依ったものではないのですが、例えば復党するのが末端の党員なのか、それとも非合法時代を生き抜いた活動家としての経歴を持ち、当該細胞設立を担った物部氏なのかでは、地区委員会の対応等にやはり違いが生じることもあるかと思います。
そういった意味で私が本文中に書いた「ありふれた」という言葉にはミスリードの嫌いがある様に思います。
もっと戦後活動を始めた無名の党員の復党申請書や確認書でないとそのような推測はできないものと反省しています。

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