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党派活動

2011年11月24日 (木)

沖縄返還協定批准阻止闘争から40年―中村警部補の慰霊碑を訪ねる

この記事は2011年11月に執筆したものですが、HP・ブログの一時閉鎖及び再公開の際に、HPに移し、内容を大幅に加筆いたしました。

HPの加筆した記事をご覧ください。

ボリューム(E:) 中村警部補の慰霊碑を訪ねる

https://sites.google.com/site/nagato0326/1971-okinawa

1971年11月14日の渋谷暴動事件から、今月で40年が経った。渋谷暴動の話を初めて聞いたのは共産趣味の世界に入る前、いつかは定かではないが父から聞いた。

どんなに遅くとも小学生の時であったと思う。他愛もない話をしていて話が将来のことに及んだ。父は今は普通のサラリーマンだが、実際は父の将来の夢はなんだったのかと聞くと、父は「ハワイの新聞記者」と答えた。
奇妙な答えである。
父が言うには新聞記者になりたかったのだが、1971年の渋谷暴動事件の際、火炎瓶を投げつけられ火達磨になってのた打ち回る機動隊員をテレビカメラは平然と追いかけており、消そうともしなかったことに失望したというのである。だから平和(そう)なハワイの新聞記者になりたいと。まぁハワイの件は冗談だろうけど。

父が言うには「学生側であろうと機動隊員であろうと、火達磨になって苦しんでいる人間を傍観するというのは人間性に問題がある」と。私も尤もだと思う。

これを「きれいごとだ」という人もあるかもしれない。なるほど確かにこの世界に入ってから機動隊員がどのような仕打ちをした(している)かとかはよく聞くことであるし、それによって嫌いになるのも分からないではない。だが、それでも私は火達磨になって苦しむ人が目の前に居れば何とかして消そうとするのが人間であろうと思うし、それに本来中立であるべきマスコミが手を出したとて非難される筋合いはないと思う。
後年ピューリッツァー賞を受賞したスーダンの少女の写真で物議を醸したのと同様の問題であろう。もっとも飢餓の問題は一度手を差し伸べても解消されないが、火達磨になっている機動隊員は一度消して適切な救護が施されれば足り、継続的な努力による問題解消は必要がないが。

このことについて論争するつもりはない。何と言われようと目の前で火達磨になっている学生や機動隊員が居れば私は消火に努めるのが人間であると思うし、それに反対するような輩と話すつもりはない。お引き取り戴きたい。

父がテレビで見たという火達磨の機動隊員が中村警部補であるかどうかはわからない。だが中核派が「機動隊せん滅」を唱え、若い警官が焼き殺されたという事実があり、その研究に携わる人間として一度は中村警部補の慰霊碑に手を合わせたいと思って今回、慰霊碑を訪れた。

さて、本題に入ろう。
慰霊碑を訪ねようと思ったのは現在も指名手配中の活動家のポスターに小さく慰霊碑の写真が載っていたからで、それまではその存在すら知らなかった。

実際インターネットで調べても慰霊碑の場所はわからない。個人ブログに載っていた日記から渋谷のお米屋さんの近くにあるということまではわかったのだが。
場所がネットで調べてもわからないとなると、訪ねるだけでなく場所をネット上で公開しなくてはいけない気がしてきた。

そこで過去の新聞記事を探したところ、中村警部補が襲撃されたのが渋谷区の神山町であること、慰霊碑の土地を提供したのが付近のお米屋さんだということまでわかったので検索したところお米屋さんが特定でき、Googleのストリートビューで慰霊碑の確認ができた。
場所は東京都渋谷区神山町11-10 NHKのセンター下の交差点と観世能楽堂のほぼ中間にある神山町東の交差点にあるローソンの向かいの精米店脇である。

Dsc_1697
写真の精米店の右側、クロネコヤマトの看板の辺りにある。

Dsc_1702_kai
道の反対側から慰霊碑を臨む。高さは50cmに満たない程の小さなものである。

Dsc_1682
慰霊碑。正面の碑文は不明。沢山の献花をどけるのは憚られたので。

Dsc_1707
慰霊碑全景。

Dsc_1705
横の碑文。

中村警部補のご冥福をお祈り申し上げます。

※訪問される方へ
意外と車の往来が激しい道路で歩道もないので、他の通行者や自動車等への配慮をお願いします。また事故に遭わないよう呉々も気を付けてください。

2011年11月 7日 (月)

資料紹介-もののべながおき氏日本共産党復党申請書&復党確認書(新規取得資料)

もののべながおき(物部長興)の日本共産党に対する復党申請書及び復党確認書を公開する。

恐らく日本共産党の内部資料に類するものと思われるが、書かれてから相当の期間が経過していること、当該人物が故人であること、戦後の日本共産党混乱期に関する資料であり貴重なものと思われること等の理由から公開する。

日本共産党の混乱期とは何のことか、と言った類のことはwikipediaの日本共産党の項を見て戴ければ大体把握できると思う。

当該人物は、復党申請書添付の経歴書等から照らして、後にベトナム反戦ちょうちんデモの会を組織したもののべながおき氏とみて間違いない。

氏の略歴についてはデジタル版 日本人名大辞典+Plusの記述を参照して戴きたいが、本資料はこれに記載されている氏の日本共産党との関係に関しては食い違う点もあることを御留意戴きたい。

【日本共産党への復党申請書】

Photo

復党申請書はA4版のレポート用紙に書かれており、昭和31(1956)年1月13日付となっている。

内容は日本共産党中部地区委員会宛てで、物部氏がかつて≪1949年6月頃≫確立に尽力した細胞であり、氏の除名前の所属であり、氏の除名と同時(期)≪1951年7月≫に一度解散処分になり(内容を読む限り別の細胞に統一されたらしい)、後に再建された細胞を所属組織(復党確認書記載の表記による)として復党を申請している。(≪≫内は本申請書添付の「経歴書」(詳細後述)による。)

申請書の執筆者は当該細胞の構成員であるが、「代」とだけあり、これが当該細胞の代表者を意味するのか、或いは当該細胞の長の代理を意味するのかは不明。

この復党申請は当該細胞の細胞会議に於いて確認された復党への承認を、上部機関である東京都中部地区委員会に対して求めたものであり、また既に口頭ではこの件について報告しており、先に行われた党内の調査に於いても党員の一人としてカウントされているようである。

以上のようなことから、本申請書は極めて形式的なものであることが分かる。口頭で了解を取っただけなのに、物部氏の存在が党の調査に既に算入されていることから、上部の反対が予定されていないことが推測されるからである。つまり氏の復党は特段の異議が生じようのないありふれたものとして扱われていたように見受けられるのである。

即ち、物部氏は、党の混乱の収拾が開始された1955年7月の六全協以降、党の方針として統一を進める中で、分裂によって除名され、或いは党を去った人々を再び糾合する大きな流れの中で復党した多くの党員の一人に過ぎないということであろうと思われる。

なお、本申請書にはB5版原稿用紙3枚に亘る物部氏の「経歴書」が糊で添付されていた。これらについては、個人情報としての色彩が濃いものであることから、今回の公開は見合わせた。

【日本共産党からの復党確認書】

Photo_2

本確認書は、A5版より一回り小さい位の大きさの藁半紙で、復党確認書のフォーマットがガリ版で刷られており、それに必要事項等を書き入れている。1955年1月17日付になっているが、これはフォーマットを訂正していないためで、正しくは1956年であろう。

地区委員会が「一九五五年」と単年のフォーマットを印刷して用意してあったことからもこの頃の復党者が多かったことが窺える。

【復党申請書添付の経歴書】

1頁目

1

2頁目

2

3頁目

3

2011年10月 2日 (日)

資料紹介-マル学同中核派メット(写真提供)&中核派全学連メット(新規取得資料)

私の友人、というよりは先輩と言った方がしっくりくる人でMさんという人がいる。彼は昨年の京大の11月祭でマル学同中核派のヘルメットを中核派の人から直接貰って帰ってきていた。先日、私が中核派全学連のヘルメットを手に入れる機会があり、思い立って写真の提供とブログ等での公開許可をお願いしたところ、快く引き受けてくださり、そのための写真を撮って送ってくださった。この場を借りてお礼を申し上げます。ありがとうございます。
私が全学連メットのきちんとした写真を撮ったら記事を立てて紹介しようと思ったのだが、先週から体調を崩しており、写真をまともに撮れなかったので、先にアップした写真をそのまま使うことにした。近い内に新たに写真を撮り直して差し替えるのでご容赦願いたい。

マル学同中核派メット(所蔵・撮影M氏) 転載不可 Imgp3718 Imgp3720 Imgp3722 Imgp3723


 中核派のヘルメットの完成は遅かった。正確に言えばヘルメットの正面のデザインの統一は主要党派の中では遅かった。そう言って差し支えないように思う。本格的に「中核」のメットが用いられて以降、「白地に『中核』」という基本以外の細かなデザインというのはまちまちであった。比して革マル派全学連は、「白地に鉢巻状赤線『Z』」という基本に関して、赤線はビニールテープを用いることから形が一定していたし、「Z」の字は書き易いからある程度デザインが収斂というか安定するのが早かった。(訂正:安定するというより、「字が単純だから多少ばらつきがあっても目立たない」という方が正しい。ただし、かなり早い時期からヘルメットの側面に「革マル」と書くのが共通化している。)

1969.12.14 糟谷人民葬 約1,000名の革マル全学連は日比谷野音へ突入の構え

19691214_1000

 それに比べると「中核」という字はなかなか難しい。「中」のデザイン、即ち「口」の部分を大きく書くというのは70年代に入るか入らないか位に定まったような印象を受けるが、なお書き手によってばらつきがあった。これが完全に安定したのがいつ頃かはわからない。

 ヘルメットを使ってセクトはそのセクト名を大衆に示す。その意味でヘルメットは大切である。デザインがヘルメットによってばらばらだと、隊列としての統一感や迫力に欠ける。だからヘルメットのデザインの統一は自然な流れであった。
 ヘルメットのデザインの統一の先駆け的存在はML派であったように思う。他党派は労働者、学生、高校生でヘルメットの基本のデザインが異なる。これに対して、ML派は全体の人数が少ないからか、労働者戦線(LFL)も学生戦線(SFL)も高校生戦線(HFL)も同じモヒカンのヘルメットをかぶり、小さく略称を記した。

1970.06.23 6.23総行動 火炎びんを持ち、鉄パイプで武装して会場を出発したML

19700623_623ml

 後年、第四インターは「学生共闘」「青年共闘」などのシールを作成し、完全に同じデザインのヘルメットを被らせた。(このことに関しては赤色土竜党ヘルメット用ステッカーシールについてに詳しい)

 第四インターなどがヘルメットのデザインを統一したのには、ヘルメットに違いがあれば、逮捕された際に証拠写真等から個人を特定され易いという理由もあった。(前掲リンク参照)事実、導入の時期は不明だが第四インターが三里塚において多くの実力闘争を闘っていた頃の写真を見るとシールが使われており、ヘルメット間に個体差はない。

 第四インター以外の党派で、通常のヘルメットのデザインが全体的に統一されているとは言い難い党派でもバイクヘル(ジェットヘル)を用いた本格的な闘争用のヘルメットは統一されていたように思う。これについては85年の10・20成田現地闘争に労働者として中核派から参加したアッテンボロー氏のブログ、アッテンボローの日記帳内の記事、「10・20三里塚闘争」に言及があるので該当部分を引用する。

(前略)
検問の機動隊員が「おい、新品のヘルメットだぞ」と驚いて同僚に話していた。この日のために用意されたバイク用のヘルメットだった。集会場に着くと選抜メンバーにはバイクヘルとゴーグル、雨合羽が支給された全員がヘルメットに「中核」と書く様に言われた。学生と労働者の区別がつかない様にするためだ。
(後略)

 「反戦」という労働者用のメットや「中核」という学生用のメット、「全学連」「自治会」などのメットを使い分ければ、逮捕必至の闘争での完全黙秘戦術の意義を多少なりとも失わせかねない事が理由であろうか。もちろん隊列を組んだ時の統一感というのもあっただろう。新品を用いたのは余計な後ろや左右の書き込みから個人が特定される(訂正:関係先がバレるとガサの対象になったり、参加者の身元が割れやすいというのが正確な表現か。「京大」とか書いてあれば、京大内の拠点がそれを口実にガサ入れられるだろうし、京大生或いは京都周辺の活動家かもしれないって推定される恐れがある)ことを避けるためであろう。

 このような本格的な闘争に用いたものに比して、普段使いのヘルメットには(正面のデザインに個体差がなかったとしても、後ろや左右の書き込みに)結構個体差がある。確かに弾圧対策の面での能力は多少劣るだろうが、こういったヘルメットは自弁ではなく共有物であった為、いつも同一人物が同じヘルメットを使ったわけではないから、その日逃げ切れば個人特定は困難で正面以外の部分に個体差があっても差支えなかったのだろうと思われる。

中核派全学連メット(所蔵・撮影 管理人:有坂賢吾 Dsc_1656 Dsc_1658 Dsc_1666 Dsc_1669 Dsc_1672



参考:中核派全学連メット個体差比較(有坂所蔵及び京大哲研公式アカウント様提供)
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正面の「全学連」がほぼ一致していることが分る。これが先述の「正面のデザインの統一」である。

 

2011年9月 9日 (金)

革労協赤砦社派公式HPを開設

正式名称「革命的労働者協会(解放派)」(マスコミ・公調用語「革労協反主流派」、俗称「木元派」「赤砦社派」)がHPを開設したことは既に多くの関係者がご存知のことであろう。
決定的な証拠、例えば機関紙やその他発行物上での記載が提示されればよかったのだが、それが今日にいたるまでネット上では示されなかった。

赤砦社派HPが発見されたのは先月8月5日のことで2ch革労協スレへのレスで公になった。当時私は広島にいた。私が実際に赤砦社派HP発見の報に接したのは6日夜であったが、私が6日の朝に平和記念公園で受け取った赤砦社派全学連=全学連(円谷委員長)中四国ブロックと反戦青年委員会名義のビラにはURLは記載されていなかったことを報告しておく。

私が広島に居た時点では当該HPが本物かどうかは不明であったが、機関紙に掲載された写真と全く同じものがカラーでアップロードされていたので疑いないように思われた。
その後はこの話題は特に注目されることもなかったように思う。

ではなぜ今頃になってこの話題に言及したのかといえば、それは現代社派全学連HPの速報を打った際に「もし赤砦社派が全学連HPを開設したら同じような記事を書くでしょうね。」と書いたからである。HPを開設しネット上に進出したという“事件”はやはり公平に扱うべきであろう。

さて、だったらさっさと記事を書けばよかったのだが、証拠となる機関紙を買いに行く気がしなかった。というのも解放派のゼッケン類をヤフオクで落としたことで深刻な金欠だったし、京大哲研公式アカウント様から写真の提供を受けて記事を書いたばかりだったし、赤軍派ヘルメットは届いたし、とプライベートが忙しかった。
それに加えて、関東で恐らく唯一であろう赤砦社派機関紙「解放」を販売している模索舎が夏場は室内なのに非常に暑いのである。別に国の節電体制に協力したわけではなかろう。(そもそも模索舎の存続に関して応援している立場としては空調に云々は言えない。)資金難が原因であろうが去年もおととしも暑かった記憶がある。

 この前模索舎に行ったら『そんなに暑かったら冷房位入れますって!』と舎員さんから言われました。ということで訂正いたします。m(__)m(2012.07.13追記)


従ってどうしても夏場は足が遠のきがちになり、今回広島に行くにあたって、広島関連について記述のある機関紙がないか探したら、解放派はおろか全左翼の機関紙に関して全く夏場のものがなかった。

だらだらここまで書いてしまったが、だんだんと暑さも治まって来たので機関紙を買いに行ったところ、あっさり題字の横にURLが書いてあって、当該HPが赤砦社派公式のものであると確認できた。

Dsc_1439

…お分かりいただけただろうか。ちょっとよってみよう。

Dsc_1443

第983号(8月11日発行)まではURLの記載がなかったが、984号(8月18日発行)からはURLが記載されている。なお本文はざっとしか目を通していないが、特段の言及はなかった。

以上で報告を終わりにしたい。現代社の時は自分が発見したこともあってノリノリだったので言ってしまったが、まぁ言わないのもなんなので。

開設おめでとう!

呉々も言っておきますが、私は革労協シンパではないです。フツーの共産趣味者です。
ってかどっちかというと右ですし。

じゃあ、まだ返信できていないコメントもあります(ノンポリ労働者さん、暫しお待ちを!)のでこの辺で失礼します。

2011年8月30日 (火)

新規取得資料紹介

twitterの方では随時紹介しているのですが、どうやらあちらを見ていない方も大分いらっしゃるようですのでこちらでも目ぼしいところを一通り紹介することにします。
こちらで紹介した資料は既にPicasaの方でも閲覧可能です。

【名称】共産主義者同盟赤軍派
【ヘルメット】赤地に「赤軍」。

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動労ヘルメットとの交換で入手したヘルメット。1977年製なので、よど号(70年)や連赤(72年)の後に国内で活動していた赤軍派のものと思われる。
このヘルメットは05年に管制塔元被告連帯基金運動の際に販売されたもので、『管制塔元被告連帯基金運動 4ヶ月の記録』76頁に写真あり。


【名称】国鉄動力車労働組合
【ヘルメット】白地に鉢巻状青線に「助士廃止反対」。

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助士廃止が当局によって打ち出されたのが1967年、1969年にはこれに反発した労働組合側によって大規模なストライキが打たれるに至った。この助士廃止反対闘争時のものと思われる。
紐ヘルではないが、私の所有する80年代の動労ヘルに比べると相違点が多い。

【解放派ゲバスタイル】

・解放派ゼッケン

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一枚布に表と裏にガリ版でスローガンが刷られていて、中央部に首を通すための切り抜きがある。売り手によれば1974年頃のものとのこと。この頃の社青同機関紙「団結の砦」はほとんど手元にあるので、スローガンなどから大まかな時期を推定することは可能と思われる。

・社青同東京地本 腕章

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・社青同 旗

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キュプラの赤い布にスプレーで「社青同」と書かれている。竹竿やバイプにガムテープで付けたとのこと。大きさは約90cm×約70cm。現在でも解放派のデモでは先頭の横断幕や旗の他に沢山の赤旗が翻っている。そのような用途に使われたものと思われる。

ゼッケンや腕章はヘルメットをかぶるような「戦闘的」なデモでは(これの前所有者の活動家は)使わなかったとのこである。その理由は『機動隊に切られてしまうから』だという。当時のデモがどれほど激しいものであったかを物語るエピソードである。

またこのことはデモの際の服装規定がそれほど厳しいものではなかったということをも示唆する。

・ゲバスタイル再現

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手元にあった国労中央支部のヤッケに腕章とゼッケンを合わせてみた。なんとなく雰囲気は掴んでもらえるのではないか。

・解放派プロテクター

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段ボールに竹を並べ、それを布ガムテープで固定し、それをゴム紐で体に固定するようになっている。競技用なぎなたの防具の脛当てに似る。そもそもは機動隊の装備にヒントを得たものであろうか。

写真のものは腕と二の腕用で、他に肩や脛用の物もあったという。70年代に考案され急速に普及し、簡単な作りながらも十分な効果を発揮したとのことである。

追記

このプロテクターについてだが、似たような代物を同時期以降の中核派も服の下に着用し対カクマル戦に備えていたとのことである。飽くまで革マル派対策であってデモでは着用しなかったそうだ。

追記2

昨日資料紹介-マル学同中核派メット(写真提供)&中核派全学連メット(新規取得資料)を書いている時に赤色土竜党のコンテンツを読んでいたら宣伝戦線第7章「強固な隊列のために」にこのプロテクターに類似するものと思われる防具代用品の記述があったので引用する。

●闘争が激烈になると予想される時は、肩や腹を新聞紙などでしっかりと防護する。また、腕には篭手(ない場合にはガムテープとワリバシで代用)をつける。全身をしっかり守って存分に闘いを遂行しよう!

これで解放派、中核派、第四インターでこういった防具の使用が確認された。

2011年8月28日 (日)

京都大学のヘルメットいろいろ

私がtwitterをやっていることをご存知の方も多いかと思いますが、相互フォローの関係にある京大哲学研究会公式アカウント様のご厚意でヘルメット写真の提供を受けることができました。ありがとうございます。

提供していただいた写真は非常に鮮明で資料性の高い写真ですので公開します。(というか、twitterで私をフォローして下さっている方は既にご覧になっていることでしょうけども)

私が京都大学の学生運動に疎いのでほぼ画像の羅列になってしまいますが、ご容赦ください。

【名称】京都大学哲学研究会
【ヘルメット】黒地に「哲研」。後ろに「京大」。

今回写真を提供して下さった京都大学哲学研究会公式アカウント様のヘルメットです。
写真を見るとわかるようにほぼ未使用で、内装から判断する限り最近の物と思われます。
公式HPはこちら→http://sites.google.com/site/kyototekken2011/

正面
Dscf0769

右側面
Dscf0771

後部
Dscf0773

左側面
Dscf0775

上部
Dscf0778

内装
Dscf0779

【名称】全日本学生自治会総連合(織田委員長)
【ヘルメット】白地に「全学連」。

最近、俳優の山本太郎さんと瓜二つと評判になったり、革共同政治集会で基調報告をしたりと何かと話題の織田委員長率いる全学連、通称中核派全学連のヘルメットです。
公式HPはこちら→http://www.zengakuren.jp/wp/

最近あんまり被らないイメージがあります。中核派系は。だけど西の方だと割と被ってるようですし、関東でも法政がらみのデモでも被ってるようです。三里塚では必ず被ってますね。

正面
Dscf0744

右側面
Dscf0750

後部
Dscf0747

左側面
Dscf0746_2

上部
Dscf0752

内装
Dscf0755

 

【名称】京都大学熊野寮自治会
【ヘルメット】白地に「熊野」。

黒地に「熊野」のヘルメットも見たことがあります。気になる方は昔(2000年代で十分)の前進か警察白書を見ると、見つかるはずです。京大哲研公式アカウントの担当者が熊野寮の方で部屋にあったので撮って下さったとのことです。残念ながら熊野寮自治会に関する細かな歴史等は勉強が追い付いていないためわかりません。

余談ですが、(熊野寮ではなく)吉田寮の方に訪問した際に『ヘルメットは今でもかぶりますか?』との質問に、案内して下さった寮生の方は『熊野寮に襲撃(ストーム)をかける際にはかぶります』と答えてくださいました。

正面
 Dscf0710

 右側面
Dscf0715

後部

Dscf0713

左側面

Dscf0712

上部

Dscf0721

裏面

Dscf0723



【名称】京都大学教養部
【ヘルメット】クリーム地に鉢巻状黒細線2本に帽章(詳細不明)。

京都大学教養部のヘルメット。当局側のもの。昭和58年12月の製造で、防災用途なのか、それとも学生と対峙する為なのかも不明。

正面
Dscf0757

右側面
Dscf0763

後部
Dscf0734

左側面
Dscf0759

上部
Dscf0765

内装

Dscf0766

保管状況(名前が書いてあったので消してあります)
Dscf0781_2

すいません。特段の解説等の準備はありませんが、一次資料としての価値が大変に高いので不要かもしれません。

終わりに、今回の貴重な画像を提供して戴いた京大哲学研究会公式アカウント様に重ねて御礼申し上げます。どうもありがとうございました。

詳細な画像が、Picasaでも閲覧可能です。

2011年6月26日 (日)

NAA 空と大地の歴史館 訪問記

昨年末に空と大地の歴史館の開館がアナウンスされてから、一体どの様なものが出来上がるのか気になっていたので行ってきた。

芝山にある航空科学博物館の敷地内にあるが、HPが今のところないので、アクセスに関しては航空科学博物館のHPを参照してほしい。
私はJRの成田駅まで行って、京成成田駅まで歩き(徒歩3分)そこから芝山千代田行きの芝山鉄道直通電車に乗った。連絡が非常に悪いし本数も少ない上に芝山鉄道直通電車は、休日と平日で別のホームから発車するので注意。

私が行ったのは日曜なので2番線から。Dsc_0299

芝山千代田駅着。所要時間10分ほど。

Dsc_0361_2Dsc_0357 Dsc_0308kai

延伸予定があるので下から見るとこうなっている。Dsc_0317

延伸推進の看板。
Dsc_0309kai

芝山千代田駅からはバスが出てるのでこれに乗車。歩いていけない距離ではないが、これからのシーズンは暑いだろうと思う。Dsc_0323kai

航空科学博物館着。入口のゲートのところに看板はあるものの、「空と大地の歴史館」の場所はわからない。
Dsc_0330kai

航空科学博物館の施設案内図。図内には記載がないが、駐車場の右下あたりに存在する。
Dsc_0328kai

そっけない立て看板。まるで場所がわからないが、駐車場の中を歩いていく。
Dsc_0329kai

駐車場の奥に小さな目立たない建物。これが空と大地の歴史館である。
Dsc_0332kai

さて、まず大前提として一つだけ確認しておく。このブログは政治的なものではない。政治的な観点からの評価はこのブログには書かないし、また私見だが反対派にとってはこの施設は別に現地に行かずとも十二分に評価可能な程度の代物であると考えている。

毎日新聞だけが反対派の意見も載せていたので引用しておきたい。

―――――――――――――――――――――――――――――

◇努力に感謝する--県議、国会議員として反対し、成田市長として共生を進めた小川国彦氏(78)の話
 ここまでこぎ着けた努力に感謝する。反対運動もあり問題は解決していない。公共事業や共生のあり方を考えるきっかけとなると思う。運動に関わった人は多く、限られた展示で表し切れない。多くの思いや意見、資料を一層集積し伝える拠点となってほしい。

◇反対運動は進行中--三里塚芝山連合空港反対同盟北原派事務局次長、萩原進さん(66)の話
 反対運動は終わったと広めたいのだろう。だが、運動は進行中で、大事な局面を迎えている。今、福島第1原発事故の被害などで、全国的に国の事業を見直す時期にも来ている。歴史館などとんでもない。作るお金があるなら、被災地に回せと言いたい。

―――――――――――――――――――――――――――――

共産趣味の観点から見てみても展示資料はここでなくては見れない貴重な資料が多い。
当ブログで主に紹介している「ゲバスタイル」はその一つで、実物のヘルメットやゲバ棒(鉄棒)、目出し帽、ゴーグルなどいずれも貴重な資料である。
ヘルメットは計22個展示されていた。出来れば写真で紹介したかったのだが、残念ながら撮影禁止であった上に、一切説明もなく、また展示目録も発売されて無い。仕方ないので現地で一時間かけて22個のヘルメットを一つずつメモしていった。それを解説を交えつつ紹介する。

凡例

紐ドカヘル:紐が鉢巻状に通してある工事用ヘルメット。
ドカヘル:いわゆる「MPタイプ」と称される工事用ヘルメット。
半帽ヘル:お椀を伏せたようなタイプのバイク用ヘルメット。半帽などと称せられる。
ジェットヘル:新左翼関係の文脈で「バイクヘル」と言う場合には大概このタイプを示す。管理人のPicasaで公開中の第四インター系「三里塚空港粉砕全国学生共闘」のヘルメットがこのタイプ。


では展示されていたヘルメットを見ていこう。

反対同盟のヘルメット

・白無地、紐ドカヘル
【来歴】
 反対同盟の小川氏所有品。逮捕された際に押収され後に返還された物で検察のタグが付いたまま展示されていた。

・白地に黒で「少行」
、紐ドカヘル
【管理人コメント】
 反対同盟農民の子ども達によって組織された「少年行動隊」のヘルメット。同盟休校などを行った外、直接的な行動にも参加した。

・白地に黒で「空港絶対反対」半帽ヘル
白地に黒で「空港粉砕」、後ろに黒で「青行隊」、紐ドカヘル
白地に黒で「空港粉砕」、後ろに黒で縦書き「東峰」、紐ドカヘル
白地に黒で「空港絶対反対」後ろに黒で「成田反対同盟」、紐ドカヘル
白地に赤で重なった「○○○」後ろに黒で「反対同盟」、紐ドカヘル
【管理人コメント】
 いずれも反対同盟のものと思われるヘルメット。「青行隊」は「青年行動隊」の略称。三つの重なった輪は反対同盟のマークで、反対同盟旗に染め抜かれているものと同じもの。

支援党派・支援者のヘルメット

・赤地に黄色デカールで「★」、ジェットヘル、2個
・赤地に黄色デカールで「★」、ジェットヘル(白ひさし付)、
2個
・赤地に白で「プロ青同」、紐ドカヘル

【管理人コメント】
 支援党派「共産主義労働者党」の青年団体「プロレタリア青年同盟」のヘルメットと、同青年団体が組織した「三里塚を闘う青年先鋒隊」のヘルメット。1978年3月26日の管制塔占拠党派の一つで、管制塔占拠部隊の中に同じヘルメットを被った者も居た。

・赤地に白で「反戦」、後ろに白で「プロ青同」、紐ドカヘル
【管理人コメント】前述の「プロレタリア青年同盟」
のヘルメットか、或いは共労党影響下の反戦青年委員会かも知れない。もっとも共労党影響下の反戦青年委員会があったかどうかは寡聞にして知らないが、「反戦」とあるからと言って反戦青年委員会のヘルメットと断定するのも短絡的であろう。

・赤地に黒の白縁で「婦人通信」、ドカヘル
【管理人コメント】
 支援党派「日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)」系の冊子『婦人通信』の「『婦人通信』編集委員会」が呼びかけて集まった全国の戦闘的婦人によって組織された。(1978/4/3付 『世界革命』第517号 三・二六開港阻止決戦勝利報告特集号に記載あり。)

・青地に黒で「反戦」
【管理人コメント】
 支援党派「革命的労働者協会(社会党社青同解放派)」影響下の大衆団体「反戦青年委員会」のものと思われるヘルメット。

・黒地(赤地の塗直し)正面難読。左側面に白で「解放」半帽ヘル
【管理人コメント】
 唯一文字が判別できなかったヘルメット。

・白地に赤いビニールテープで「✚」、左側面に黒で「救護」、ドカヘル
・銀地に赤いビニールテープで「✚」、左側面に白いビニールテープで「野戦」、
後ろに赤いビニールテープで「✚」、ドカヘル
【管理人コメント】
 おそらく三里塚野戦病院の活動家のものと思われる。当時の写真を見るとそれなりの人数がおり、青医連の活動家なども参加してデモ隊との衝突による負傷者の救護に当っていた。

・赤地に黒の白縁で「合宿所」、後ろに黒の白縁で「弁当隊」、紐ドカヘル
【管理人コメント】
 三里塚の労農合宿所に所属していた活動家のものであろう。弁当隊ということは非戦闘員で炊き出しを担当していたのだろう。

・黒地に白で「反战」、左側面に白で「7」、右側面に白で「叛乱」、ドカヘル

【管理人コメント】
 ノンセクト系の活動家だろうか。詳細不明。

・白地に青で「全共闘」左側面に青で「応化」、その上に黒で「応斗委日和見派」、後ろに赤で「震研斗争勝利」、右側面に青で「応化」その上に赤「反帝」、紐ドカヘル
【管理人コメント】
 このヘルメットは東大全共闘のものではないかと思っている。以前ヤフオクに東大地震研闘争に関する本が出ていたのだが、寝過ごして入札できなかった。

・赤地に黒で「連帯」、後ろに黒で「連帯自治会」、その上に黒で「現闘(門構えに斗)」、紐ドカヘル

【管理人コメント】
 どこかの党派或いはノンセクト系の自治会で現地に常駐していた活動家のヘルメットだろう。

以上が展示品のヘルメットの全てである。反対運動初期の襷や鉢巻、その他実物資料が展示してあるので、一見の価値はある。しかしそれはこの歴史館のコンセプトの正当性を担保し得るものではない。

参考(追記2011.10.06付)

来場者アンケート(手元の資料整理してたら出てきたので公開)

Img021

2011年5月18日 (水)

【速報】全学連(伍代委員長)、公式HPを開設

全学連(伍代委員長)、通称:革労協現代社派全学連が公式HPを開設したことを確認したので、お知らせします。

全学連(伍代委員長) 通称:革労協現代社派全学連
http://zengakuren.info

ちなみにですが、下記に現代社派以外の全学連を自称している団体のHPを列挙しておきます。
通常全学連は、委員長の名前で区別するので、公式でも「全学連(○○委員長)」という風に表記しますが、民青全学連はそのような形式をとっていないようです。しかしながら今回は便宜的に委員長名で表記しました。

全学連(小山委員長藤浦委員長 通称:民青全学連
http://www.zen-gakuren.jp/

全学連(織田委員長) 通称:中核派全学連
http://www.zengakuren.jp/

全学連(奥野委員長) 通称:革マル派全学連

http://www.zengakuren.org/

全学連(円谷委員長) 通称:革労協赤砦社派全学連
ホームページ未確認

追記2011.05.21付

どなたか「ホントにこれ現代社派全学連の公式HPなのか?」「証拠出せよ!」位な事を言って下さればよかったのですが、まさか現代社派の名前を騙ろうだなんて奴は居るわけがないし、あんな雰囲気のHPは現代社派しか作れないであろうことは明白なので、皆さん特に疑うこともなく信じて下さり、それにより私が証拠となる写真をアップロードする機会を失してしまいましたので、行き場を失った証拠写真を一応掲載することにします。

それがこれ↓

Ws000017

正直我が目を疑いました。

言い忘れてましたけど、

全学連(伍代委員長)公式HP開設おめでとう!

追記その2

呉々も言っておきますが、私は革労協現代社派シンパではないので。フツーの共産趣味者です。ですので、もし赤砦社派が全学連HPを開設したら同じような記事を書くでしょうね。


追記その3 2011.05.29付

民青全学連の委員長がいつの間にか小山農さんから藤浦修司さんに代わったことが発覚。
でも全学連HP見ても執行部人事がいまいち解らん。そんなことやってから解散が発議されるような加盟自治会が(自主規制)

2011年1月22日 (土)

レッドパージ期の共産党員指名手配書

この度、レッドパージ期の共産党員指名手配書を入手したので公表する。
レッドパージ下において一般刑法犯とはその性質を全く異にする超憲法的な法律によって指名手配された人々に関する内部資料であるため、これを一般に公開することは公益に反するものでなく、むしろ寄与(どのように寄与するかは私の知るところではないが)するものであると判断し公開する。

なお指名手配された人々の住所、本籍、原籍、指紋に関してはプライバシー保護の観点からこれを抹消して掲載することを了解されたい。

また、それぞれの画像をクリックすると、Picasaに飛ぶように設定してあり、リンク先では写真を拡大して細かく見ることが可能である。

また、拡大ができない場合は右上の「ダウンロード」から「写真をダウンロード」を選択して、PCにダウンロード後に閲覧すると拡大できる。

【封筒】

Photo_2

 

当該手配書と指紋採取用紙は昭和29(1954)年9月22日消印の某県警警察本部警務課差出しの実逓便に収められていた。当封書の名宛人は同県内の(現在でも)農村部の個人である。

【手配書1】

1

手配書1 表
徳田球一、野坂参三、伊藤律、志田重男、紺野與次郎、松本三益、長谷川浩、竹中恒三郎 8名の顔写真、左示指指紋

また、一番右端には8名分の別の指紋があり「この欄の指紋は、左表押捺指紋の反対の指紋であるから指頭の指紋と直接対照する場合に利用すること。」との記載がある。

1_2

手配書1 裏
徳田球一、野坂参三、伊藤律、志田重男、紺野與次郎、松本三益、長谷川浩、竹中恒三郎 8名の生年月日、住所、本籍、原籍、人相書き、署名(本人のものか?)

手配書1は1950年6月6日の公職追放後、団体等規制令違反(不出頭)で逮捕状が出た所感派中央委員9名の内、同年10月に逮捕された春日正一を除く8名であると考えられる。

参考:http://www.marino.ne.jp/~rendaico/toshi/nihonkiyosanto_nokenkiyu_toshi_12_2.htm

 

【手配書2】

2

手配書2 表
椎野悦郎、河田賢治、鈴木市藏、杉本文雄、輪田一造、保坂浩明、西沢隆二、岡田文吉、岩本巖、木村三郎 10名
の顔写真、左示指指紋

2_2

手配書2 裏
椎野悦郎、河田賢治、鈴木市藏、杉本文雄、輪田一造、保坂浩明、西沢隆二、岡田文吉、岩本巖、木村三郎 10名
の生年月日、住所、本籍、原籍、人相書き

手配書2は1951年9月4日に政令三二五号(占領目的阻害行為処罰令)違反容疑で逮捕状の出された19名の内、当時逮捕されていなかった11名の内の10名である。本手配書に掲載のない残りの1名、西館仁についてはいつ逮捕されたかなど不明。文献調査を要する。
参考:http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/25/rn1953-605.html

 

【指紋採取用紙】

Photo_3
指紋採取用紙 表


Photo_2
指紋採取用紙 裏

同封されていた指紋採取用紙に残された一名の両手の指紋については、誰のものか不明。

【本資料より推測されること】

指紋鑑定の実際がどのようであるかは寡聞にして知らないが、農村部に住む個人が以前から同県警の指紋鑑定を委託される関係にあり、同県警は指名手配者と思われる人物から採取した指紋を、レッドパージ手配者の指紋と照合するように依頼して、送付したのではないか?

→あんな小さな引き延ばしてもいない手配者の指紋で照合なんてできるのか?

→また、この手配書は持ち運びが容易にできるようになっており、鑑定依頼で送るならこのような形式の手配書である必要はないのではないか?

Dsc_0052

縦方向に五等分に折ってあるのがよくわかる。五等分された一つの面は名刺大かやや縦が長い程度の大きさ。

これをみるに、どちらかと言えば集会、あるいは共産党と関係が疑われる機関周辺での張り込みで使われる面割り用のものに思える。

こんな感じで

19690905

1969.09.05 山本の手配写真を照合中の機動隊員(於 全国全共闘結成大会)

さぁどうなんでしょうか。おそらくこのような資料が公にされることはないでしょうから真相は闇の中なんでしょうね。


2010年9月 8日 (水)

【番外】 1968-1972年ごろの革マル派機関紙「解放」

1968-1972年頃の革マル派機関紙「解放」を沢山(126-165号(131-133号欠) 205-229号(215号欠))入手する機会に恵まれたので、その中から興味深い物を公開したいと思う。

本来機関紙というごくごく普通な品物は入手したからといってこういう風に公開することはない。
しかしながら革マル派は学生運動最盛期から日本の左翼界の主要な位置を占め、また現在に至るまで勢力を維持しており、その存在を無視することは出来ないにも拘らず、革マル派「解放」は中核派「前進」や第四インター「世界革命」などの様に縮刷版が発行されておらず、過去の機関紙をみるのが他派と比べて容易でないのだ。

※実はかつて革マル派も縮刷版のようなものを限定一部(!)で発売したことがあった。ところがそれは縮刷版ではなく、今までの「解放」の実物を合本にしたもので100万円以上の値が付けられていた。
…うん、正直欲しいよね。おくところ無いけど。

と、いうわけで公開しようと思うのだが、こういうことをやってて心配になるのはやはり「スパイ」扱いをされないかということだ。
まぁそうは言ってもビラとかの入手が困難なものを公開するのではなく、極論を言えば100万円出せば確実に入手できるものなので問題は無いと考えている。ましてや40年前のものなのでなおさら構わないと思っている。

さて本題に戻ろう。今回扱うのはブログの本旨でもあるゲバスタイルに関することと、その他なんとなく目にとまったものである。スキャナを使えばいいのだが面倒くさいのでコンデジで接写した。
(接写して気付いたのだが、このコンデジは古い。ホントに古い。近々お金を貯めて買おうと思うがいつになるやら。)
デジカメを使ったのは、スキャナを使うのが面倒なのも確かに理由のひとつなのだが、紙が当然の事ながら経年劣化でボロボロになっており、とても家庭用のスキャナの読み取り面にあてがう作業に耐えられそうに無かったというのもまた理由である。
ちなみに閲覧後の机には「どこの死海文書だよ!」ってくらい破片が散らばっていた…。

Cimg2354

さて普通に掲載したいのは山々なのだが、ココログは画像一枚当たり1MBという上限があるので縮小しなきゃいけない。しかしこれが面倒なので、Picasaにアップした画像にリンクをすることで済ませたいと思う。

①機関紙記載の組織名称の変化

写真に写っているのは126号(1968.11.15)~129号(1969.01.01)までの四部のタイトル部である。
注目すべきは127号の「滞納紙代の一掃を!」ではない。

拡大した画像を見て欲しい。

126号、127号の名称は、
「日本革命的共産主義者同盟 全国委員会 革命的マルクス主義派」
なのだが、128号からは、
「日本革命的共産主義者同盟 革命的マルクス主義派」
となっている。
これが地方の一支部の機関紙記載の組織名が変わったくらいなら、(元々革共同全国委が分裂して出来た組織だから)、「組織名称の表記揺れを全国的に統一でもしたのかな?」くらいにしか思わないが、中央の機関紙だから、それなりの理由があるんじゃないかと目を通してみたが特別な記述は無かった。

「正式名称なんて特別意味は無いんじゃないか?」という意見もあるだろうが、それならそもそも「全国委員会」を消す必要が無いわけで…。
この辺の事情に通じてる方は教えてくださいな。

②伏字

一部伏字になっている。戦時中のブルジョア・マスコミは伏字にする時は「○」だったなってくらいの話で特に言及した意味は無い。
なお今回引用した画像は1969.11.21 革マル派 「解放」 号外 一面下部のものである。

③反戦高連のヘルメット

反戦高連といえば革マル派の高校生組織であり、以前に当ブログで紹介したところ様々な情報が寄せられた。

まずは機関紙に載っていた写真を見て欲しい。

お分かりいただけただろうか…。

ちょっとよってみよう。

写真中央部の人物のヘルメット(人物は反対を向いているので、ヘルメット後部ということになる。)には、先の記事で滔天さんから寄せられた情報

―――――――――――――――――――――――――――――

あと、反戦高連のメットについて、横浜ならばZにYを重ねたと書きましたが、横浜の高連は東京ブロックに分けられ、Zに重ねた文字はTだったと、横浜の高連OBから聞いたことを思い出しました。「あれ、Yじゃないのか」とまぜっかえしたものでした。

投稿: 滔天 | 2010年6月29日 (火) 17時06分

―――――――――――――――――――――――――――――

にあった、「ZにTを重ねたマーク」が見えるのだ。

わかりにくいようなので、その部分を加工した。

Tを強調した画像

Zを強調した画像

写真真上の矢印でページを送って見ると、わかりやすいと思う。

今回纏まった数の「解放」を手に入れたが、反戦高連の写真は少なく、またあってもかなり引いた画像か、後ろから写した物が多い。これは滔天さんの指摘にあった、

―――――――――――――――――――――――――――――

反戦高連のメットに話を戻しますが、高校名は表記しませんでした。69年だったか、各都道府県教育委員会が、高校生の政治活動を禁じる5項目ほどの通達を出し、厳しい処分で臨んだからです。一方、革マル系全学連のメットは、後部に大学名を書いていたはずです。

投稿: 滔天 | 2010年6月25日 (金) 21時46分

―――――――――――――――――――――――――――――

という事情によるものではないかと思われる。

④国労のヘルメット

国労のヘルメットについても、先の反戦高連の記事内で滔天さんから情報を戴いている。抜粋して寄せられた情報を以下に整理する。

―――――――――――――――――――――――――――――

ヘルメットの下部外周に巻いた帯は、全学連並びに反戦高連は「赤」動労が「青」、国労が「黒」と決められていました。

投稿: 滔天 | 2010年4月24日 (土) 10時45分


国労のメットは、正面に「国労」とだけ。脇に「反合理化」とあった記憶もありますが、定かではありません。あと、後部には組合の支部名を書いていたかもしれません。
労線なので、反帝・反スタとは記していなかったことだけは、記憶にあります。

投稿: 滔天 | 2010年6月25日 (金) 21時21分


追伸 うろ覚えですが、革マル系の国労、動労は、「反合理化」と、「マル生粉砕」のスローガンをメットに書いていたような気がします。マル生とは、経営側と右翼労組・鉄労による生産性向上運動のことです。

投稿: 滔天 | 2010年6月25日 (金) 21時36分

―――――――――――――――――――――――――――――

今回入手した「解放」からは二種類の国労と思しきヘルメットを見出すことが出来た。

一つ目は、白地に鉢巻状黒(?)線に「国鉄反戦」のヘルメット(1970.07.15 「解放」 165号 三面)

二つ目は、白地に鉢巻状黒(?)線に「国労」のヘルメット(1971.12.25 「解放」 217号 一面)

一つ目の方は存在するか知らないけど「国鉄反戦青年委員会」で二つ目こそが「国鉄労働組合」のヘルメットかとも思ったのだが、「国鉄反戦」のキャプションが「国鉄労働者」ではなく「国労労働者」であることが引っかかるのだ。先頭のメット部隊が国鉄反戦でその後ろのメットを被っていない人が国労労働者ということか。私の間違いですね。
何れの写真も革マル派国鉄委員会名義の記事内で使われている。

⑤初期の内ゲバ

横国大富士見寮における革マル派活動家水山敏美君殺害に関する記事である。(1971.11.15 革マル派「解放」 213号)
写真は四枚ほどあるので、そのまま写真真上の矢印を送って見て欲しい。

なおこの時点での党派闘争における革マル派の死者は前年の海老原君(中核派による)と町田君(人民党=日共によるとされる)の2名をあわせた3名である。

⑥革共同第三次分裂

これも特に意味は無い。単純に革マル派自身が「革共同第三次分裂」という用語を使ってたんだなぁと思っただけ。(1972.01.15 革マル派「解放」 219号)

⑦連合赤軍に関する革マル派の見解

これも写真は三枚あるので、そのまま写真真上の矢印を送って見て欲しい。(1972.04.05 革マル派「解放」 227号)
拡大すれば本文が読めるはず。

⑧早稲田大学政治経済学部自治会再建の記事

僕の認識では法学部が民青のほかは全部革マル派系自治会で、政経は空席だったと思ったが、再建は一応しているようだ。(1972.02.05 革マル派「解放」 221号)

⑨スト共闘のヘルメット

写真左側の、デモ隊の写真をとっている人の直ぐ右に覆面をしているデモ隊員の正面が写っているが、「スト○…」と書いてあるように見える。キャプションにある「スト共闘」かと邪推。(1972.03.25 革マル派「解放」)

⑩官公労のヘルメット

写真中央の旗「沖縄官公労 農林支部」の旗手のヘルメットを見ると「官○…」と書いてあるように見える。

他にも色々あるけど眠いので寝ようと思います。解放に関しては34枚の写真がフォトアルバムに上げてあるので良かったら見てください。

より以前の記事一覧