沖縄返還協定批准阻止闘争から40年―中村警部補の慰霊碑を訪ねる
この記事は2011年11月に執筆したものですが、HP・ブログの一時閉鎖及び再公開の際に、HPに移し、内容を大幅に加筆いたしました。
HPの加筆した記事をご覧ください。
ボリューム(E:) 中村警部補の慰霊碑を訪ねる
https://sites.google.com/site/nagato0326/1971-okinawa
1971年11月14日の渋谷暴動事件から、今月で40年が経った。渋谷暴動の話を初めて聞いたのは共産趣味の世界に入る前、いつかは定かではないが父から聞いた。
どんなに遅くとも小学生の時であったと思う。他愛もない話をしていて話が将来のことに及んだ。父は今は普通のサラリーマンだが、実際は父の将来の夢はなんだったのかと聞くと、父は「ハワイの新聞記者」と答えた。
奇妙な答えである。
父が言うには新聞記者になりたかったのだが、1971年の渋谷暴動事件の際、火炎瓶を投げつけられ火達磨になってのた打ち回る機動隊員をテレビカメラは平然と追いかけており、消そうともしなかったことに失望したというのである。だから平和(そう)なハワイの新聞記者になりたいと。まぁハワイの件は冗談だろうけど。
父が言うには「学生側であろうと機動隊員であろうと、火達磨になって苦しんでいる人間を傍観するというのは人間性に問題がある」と。私も尤もだと思う。
これを「きれいごとだ」という人もあるかもしれない。なるほど確かにこの世界に入ってから機動隊員がどのような仕打ちをした(している)かとかはよく聞くことであるし、それによって嫌いになるのも分からないではない。だが、それでも私は火達磨になって苦しむ人が目の前に居れば何とかして消そうとするのが人間であろうと思うし、それに本来中立であるべきマスコミが手を出したとて非難される筋合いはないと思う。
後年ピューリッツァー賞を受賞したスーダンの少女の写真で物議を醸したのと同様の問題であろう。もっとも飢餓の問題は一度手を差し伸べても解消されないが、火達磨になっている機動隊員は一度消して適切な救護が施されれば足り、継続的な努力による問題解消は必要がないが。
このことについて論争するつもりはない。何と言われようと目の前で火達磨になっている学生や機動隊員が居れば私は消火に努めるのが人間であると思うし、それに反対するような輩と話すつもりはない。お引き取り戴きたい。
父がテレビで見たという火達磨の機動隊員が中村警部補であるかどうかはわからない。だが中核派が「機動隊せん滅」を唱え、若い警官が焼き殺されたという事実があり、その研究に携わる人間として一度は中村警部補の慰霊碑に手を合わせたいと思って今回、慰霊碑を訪れた。
さて、本題に入ろう。
慰霊碑を訪ねようと思ったのは現在も指名手配中の活動家のポスターに小さく慰霊碑の写真が載っていたからで、それまではその存在すら知らなかった。
実際インターネットで調べても慰霊碑の場所はわからない。個人ブログに載っていた日記から渋谷のお米屋さんの近くにあるということまではわかったのだが。
場所がネットで調べてもわからないとなると、訪ねるだけでなく場所をネット上で公開しなくてはいけない気がしてきた。
そこで過去の新聞記事を探したところ、中村警部補が襲撃されたのが渋谷区の神山町であること、慰霊碑の土地を提供したのが付近のお米屋さんだということまでわかったので検索したところお米屋さんが特定でき、Googleのストリートビューで慰霊碑の確認ができた。
場所は東京都渋谷区神山町11-10 NHKのセンター下の交差点と観世能楽堂のほぼ中間にある神山町東の交差点にあるローソンの向かいの精米店脇である。
道の反対側から慰霊碑を臨む。高さは50cmに満たない程の小さなものである。
慰霊碑。正面の碑文は不明。沢山の献花をどけるのは憚られたので。
中村警部補のご冥福をお祈り申し上げます。
※訪問される方へ
意外と車の往来が激しい道路で歩道もないので、他の通行者や自動車等への配慮をお願いします。また事故に遭わないよう呉々も気を付けてください。
最近のコメント