フォト

現在の訪問者数

アンケート

最近のトラックバック

web拍手

無料ブログはココログ

共産趣味一般

2015年10月18日 (日)

僕が共産趣味者になった理由。君を趣味者にしたいわけ。 その7(終)

その6)から続く

現状は多難である。しかし当時の資料もあまり多くはないが流通しはじめている。それを専門に扱う書店も、私が共産趣味者になったころよりやや増えた。資料が流通する基盤はできつつあり、資料はこれからも手に入りやすくなるだろう。しかしまだ流通が少ないために相場は形成されていない。こういった資料を入手して内容をまとめていくだけでも、放っておけば無くなってしまう歴史を残す作業の一端を担うことができる(気がする)。これは非常に面白いことであるし、共産趣味の醍醐味である。

だが生き証人である当時の関係者から話を聞くことのできる時間はそれほど残されていない。

最近とある全共闘のOB2人と話をした。私は「あと10年が勝負だと思っている」というと「5年だね」と返された。学生運動の画期となった1967年からあと2年で50年となる。それが一つの節目になるといい、それを逃せばみな段々と手を引き、体力的にも2020年ごろが最後になるだろうというのである。既に私がお目にかかった人も1人鬼籍に入った。ほかの人も多かれ少なかれ加齢によって体調を崩しているようだ。残された時間は短いのである。

前々から温めていたことも話した。当時の関係者を一堂に会しつつ、実際の資料や写真なんかを肴にして話して貰えれば、かなり面白いことができるのではないかというアイディアである。これは恐らく前例のない試みだと思う。一つの闘争に関する各派機関紙を集め、参加した者、当時獄中にあった者、それぞれの党派隊列に居て行動した者など、資料を前にしてそこで思い出すこともあるかもしれないと考えたのである。

やはりアイディアとして面白いとは言われたが、非常に難しいことだともいわれた。確かに大変な労力が要ることだと思う。

私も転勤族だし忙しい業界の働き盛りの年齢だから時間はそれほど割けない。そのことは私が関係している全共闘OBたちもわかっているが、当時のことを資料として残していくために若い人の助力を必要としている。

直接助力する必要はない。こういったことに興味を持ってくれたのなら、共産趣味者としてその界隈で活発に活動するだけでいい。どうしてもこういった政治的なことと関係することは敬遠されがちである。あまり大っぴらにいえる趣味でもない。だが、この趣味の世界に入ってくれるなら、そこで楽しく趣味を続けてくれるのなら、資料の流通も多くなるだろうし、当時のことを語ろうという人も増えるだろう。人の耳目を詰めるためには、やはり人が不可欠であると思う。

もちろん直接助力したければしてもいいが、彼らは反原発運動や戦争法案反対など現在も政治活動をしており、政治的に相反するところもあるだろう。私も政治的には全く相反するところに位置している。政治運動体としての側面を有するところと関与したくないという気持ちは私も未だ持っている。そういったところをはっきりとさせて、飽くまで昔のことを調べまとめるためだけに関与するというのならそれもありだと思う。

もし若い人の助力を本当に必要とするのならば、受け皿が必要だと考えている。飽くまで純粋学術的に証言を収集し、各種資料を電子的にで良い。蓄積して共有する場所が、である。

だが、数十年を経て再び集まった当時の活動家たちは政治運動を再開してしまった。あまり当時のことを残すことには熱心とは言えない。こういった状況について当時の関係者から何らかの呼びかけがなされなければ世代を超えた研究は難しいと思ってる。だがそれもまた選択だとも思う。

僕が共産趣味者になった理由。君を趣味者にしたいわけ。 その6

君を趣味者にしたいわけ。

その5)から続く

私の共産趣味の興味の範疇である新左翼は、精々数十年前のことなのに当時の党派機関紙誌という量産された印刷物ですら国会図書館にも断片的にしか収められておらず、物の本にも記録されていない部分がまだまだ多く残されている。関係者も続々と鬼籍に入っている。関係者の死は体験者の声を聴けなくなるという意味で一つ大きな損失であるが、また一方で体験者が大事に資料を持っていたとしても家族が遺品整理で捨ててしまい、資料が永久に失われてしまう恐れもある。遺族にとっては書画骨董ですらガラクタとして人手に渡ることはままあることだ。わら半紙や粗悪な酸性紙に印刷された昭和40年代の紙資料やペンキで塗ってスローガンを書いたヘルメットなど何をかいわんやということである。

とても過激な事件を起こした連合赤軍や日本赤軍、よど号グループや、それらを生み出した赤軍派、連続企業爆破事件を起こした東アジア反日武装戦線に関する書籍は多い。凄惨な内ゲバを繰り返した中核派や革マル派も同様である。だが多くの党派を生み出した共産主義者同盟(ブント)の名を知る人は少ない。「赤軍派」という言葉を知っている人は多いだろう。ただ「派」という位だから、なんらかの組織の分派だということは想像がついても、それがなんと言う組織かは知らないのである。それだけ語られてこなかったし、気にも留められていなかったのかもしれない。

70年代中ごろ以降のブントの分派はそれこそ星の数ほどあるだろう。だが記録されていないのである。

これは大学闘争について顕著である。

東大闘争は東大全共闘代表だった山本義隆氏が大変な苦労をして当時の関係者からビラなどを集めた結果、それなりの数の資料が集まり、資料集として国会図書館や大原社研に収められた。日大全共闘は今同窓会のような形で資料を収集し、そう遠くないうちに佐倉の博物館で展示をやるという話を聞く。

他の大学でもその規模には違いこそあれ、学生運動があった。だが知られていないのである。このことを痛感したのは偶然見つけたYahoo!知恵袋の質問である。

約35年前の南山大学の学生運動について情報を持っている人がいらっしゃいました...

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q111354891

南山大学の学生運動について情報を募る質問者に対して、唯一にしてベストアンサーとなったのは「そんな田舎の5流大学のこと、話題にもならないよ。残念ながら。」という冷たいながらも全く現状を正確に捉えた回答であった。5流大学云々は別として、日大全共闘や東大全共闘以外の全共闘は話題にならないし、話題にしようにも資料がないのが現状なのである。

高校生運動もまた同じような状況である。私は共産趣味者になったとき高校生だったし、わが母校の中庭は由来は不明ながらも「赤の広場」と呼ばれていたから、高校生運動にも興味を持った。だが資料がなかった。党派の高校生組織も反戦高協や反戦高連ですら情報は少なかったし、個々の学校の運動にしても似たようなものだった。現在は中公新書から『高校紛争19691970』という書籍がでて、幾らか状況は変わったが、それでもまだ資料が中々ないことに変わりはないのである。

(その7)へ続く

 

僕が共産趣味者になった理由。君を趣味者にしたいわけ。 その5

その4)から続く

長々と自分語りを書いてしまったが、題の「僕が共産趣味者になった理由」については、まだそのきっかけしか書いてない。もうしばらく続けさせてもらう。

いざ共産趣味者になってみて、ふとそれ以前の記憶をたどると、昔からそういったものに興味を持っていたようなフシがある。

例えば私がまだ小学生の頃だったと思うが、番組と番組の間の短いニュース番組で、大学にガサ入れがあったというニュースを見た覚えがある。凶器が押収されたというニュースで、この時うっすらながらも特に印象深く覚えているのは、押収された中に仕込み杖があり、その仕込み杖というのが「座頭市」に出てきたようなそれではなく、松葉杖であったことである。私の中の大学のイメージは地元にある駅弁大学のとあるキャンパスで、あんなところに大量の凶器があるとは信じられなかった。恐らく明大における革労協分裂に伴う内内ゲバと学内からの排除の中であった家宅捜索のニュースだったのであろうとは思うが、まさか大学内外で凶器を持った過激派が殺し合いをしているなんて、平成生まれの小学生の私の考えの及ぶところではなかったのだ。

またある時、これもやはり小学生の頃だったと思うが、地下鉄北千住駅の構内の長い通路で過激派アジトの通報を求める警視庁のポスターを見て、まさか日本に過激派なんているとは思わなかったから(この頃はちょうど911の直後だったと思う。私の世代では過激派といえば、まずイスラム過激派という認識が支配的である。小さいころに起こった911やそれ以降の中東情勢が主因であろう。)家に帰って父に、日本の街中に「過激派なんかいるのか」と聞いたら、「そういう人も居るのだ」と言われ、また母にはそのポスターのいう過激派というのは、イスラム過激派ではなく、一般に極左過激派といわれる人のことで、左翼にもいろいろ居るがその中にはテロをする人や抗議活動をする人などいろいろ居て、私の幼いころには父が人事担当者としてで比較的戦闘的な労働組合と交渉をしていたから、家の前で抗議活動をされる可能性まで考えられていたという話もしてくれた。

子どもが抱く無数の些細な疑問の中で、特に印象深くこれを覚えているということは、なにかしら感じるところが当時からあったのだと思う。

(その6)へ続く

 

2015年10月17日 (土)

僕が共産趣味者になった理由。君を趣味者にしたいわけ。 その4


その3)から続く

 ボリューム(E:)はアドバルーンのようなものだった。現在は寧ろ個人のHPという文化がなくなって、個人といえばtwitterを主体にブログを持つくらいが普通になってしまったが、共産趣味のかつての全盛期は、個人HP文化の全盛期と重なっており、私の参入した当時、それらの個人サイトがLINKバナーを残して殆ど消滅していた。それらを目の当たりにした時、忘れ去られた廃墟を目の前にしたような何とも言えない喪失感を覚えていたから、新たにコンテンツを公開するとどのような反響があるのかを見てみたかったのである。当時高校生で金はなく、オークションに手を出すわけでもないので、新規資料も望めない。となるとやれることはアドバルーンを上げて、世の中の流れを見てみることくらいしかなかったのである。

 開設したのは2009年、高2も終わりに近づいたまだ寒いころのことだった。2週間に1度記事が更新されるようにして、mixi上で公開したものをそのまま移しただけの代物だった。

 もとよりブログの効果がすぐに表れるとは思っていなかった。人を惹きつけるコンテンツなんて一朝一夕に作れるものじゃないし、みんなお気に入りのブログはそれぞれあってもなかなかコメントを残そうとまではしないものだ。ニッチなこの業界なら尚更である。実際特に反応もないまま日々は過ぎていった。だが反響を得るためには地道に新規性のある情報を流し、実績を積み重ねるほかないと思っていたからそれも織り込み済みだった。
 共産趣味者になる以前、あるニッチな趣味の界隈に身を置いていたことがあった。その界隈に居る時に、一目置かれる人物というのは実を伴っている人物で、常にアンテナを高くしてその趣味の最先端を行く人物、情報や話題を供給する、シェアすることを厭わない人物であることを目の当たりにして、自分もそうありたいと思っていたからである。だから掲示板で少ない知識をもとにした浅薄な言葉を晒すよりも、地道にコンテンツを蓄積していくことに重きを置いていた。尤もその当時のコンテンツといえば、自分ではそれなりのものだと思い込んではいたが、今見ると何とも恥ずかしくなるような、やはり浅薄な吹けば飛ぶようなものでしかないのだが。

 話をもどそう。HP開設の直前、2008年10月に初めて実物のヘルメットを手にした。
 その前にも機会はあった。初めてオークションに手を出したのは、黒地に「叛」と書かれた黒ヘルが出品されたときのことで、オークションの仕組みもわからず風呂に入っている間に高値更新されて落札されてしまった。落札価格1,800円。今となっては信じられない低価格である。
 これを逃してからというもの、何とかして実物のヘルメットを手に入れようと方々に手を回し、初めて手に入れた動労のヘルメットは1つ3,000円。これを5つ手に入れたのが、私のヘルメットコレクションの始まりで、あれからちょうど7年経つが、思うように数は増えてくれない。
 初めて実物のヘルメットを手にした時は何とも言えないワクワク感があった。決して出来の良いヘルメットばかりではなかった。というより交換で手放して今は手元に無い一つを除いてはお世辞にもカッコいいとはいいがたい代物だったが、実物の持つ独特の雰囲気、埃っぽい匂いや、砂ぼこりでざらつくそれを手にした感動は今も覚えている。
 その後、やはりヘルメットを逃したことがあった。逃したのは同志社大社学同の赤ヘルで、5,000円を超えて、プレミアム会員じゃなかった私は入札できず臍を噛んだ。このことはオークションに本格参戦する契機となった。


(
その5)へ続く

2015年10月13日 (火)

僕が共産趣味者になった理由。君を趣味者にしたいわけ。 その3

その2)から続く

この文章は一気に書き上げているわけでもなく、それこそ徒然に言葉を編んでは切りのよさそうなところでアップしているだけなので忘れていたことを思い出したりする。

文章を考えていて思い出したのだが、機関紙を初めて買ったのは模索舎ではなかった。御茶ノ水の書泉グランデであった。書泉グランデは機関紙の品揃えはそれほ ど良いわけではない。縦に細長い白いマガジンラックが一つだけあって、それが機関紙売り場であったと思う。置いてあるのも中核派「前進」や革マル派「解 放」、或いはインターの「かけはし」くらいで、右翼系として一水会の「レコンキスタ」もあったと思う。私が初めて買ったのはこの数紙で、その頃は最近「絶 歌」を出版したことで問題となった少年Aを無実だと主張する革マル派の神戸事件パンフがまだ売られており、私も一部購入した覚えがある。今となってはどこに仕舞い込んだのかも定かではないが。

もちろん書泉グランデで機関紙を購入するのも、ドキドキだった。だが案外あっけなかった。周りの客とて、他の客が商品を買っていても、それがよくわからない新聞だとしても気にも留めないし、むしろそこにあるものが何なのかすらわかっていなかったろう。

私としてはこの数紙では満足できなかった。前進も解放もかけはしも、HPがあったから、初めて機関紙を購入したということに満足感は覚えても、それ以上のものではなかったのである。

話をもどそう。模索舎へ初めて行った時の話だ。季節もよく覚えていない。だが、夢中で壁にささっている機関紙を手に取って、一紙ずつ求めたのと、日共行動派 の「人民戦線の旗の下に!」がやたらと高かったのだけを覚えている。この時機関紙以外では「救援ノート」を唯一購入した。表紙が「サッコ・ヴァンゼッティ 事件」のイラストであったと思う。

家に帰って和室に広げて読んだが、機関紙はそれほど「面白い」ものでもなかった。政治論文は難解過ぎたし、それほど興味もなかった。過去のそれとは違って実 力闘争を闘っているわけでもない。写真も豊富ではないし、白黒ではヘルメットの色がわからない。寧ろ興味深かったのは「救援ノート」の方だった。ある意味 で「実用書」なのだからそれも当たり前だろう。概念より実務の方が素人にはとっつきやすい。

次に私が求めたのは実物資料だった。実物のビラやポスター、そして何よりヘルメットが欲しかったが、調べても売っているところなど見つからなかった。ヤフオクは見ていたが、まだ手を出していなかった。ヤフオクには当時ブント関係の資料がだいぶ流れていた。RG資料集などもあったのではないか。当時はその価値が判らずオークションに手を出さなかったが、今だったらすぐに購入しているだろう。

色々と調べて、恐らく扱っているであろう店を割り出し、初めて購入した実物資料は「赤軍 8号」だった。これは後にわかったことだが共産主義者同盟赤軍派が最後に発行した機関誌である。

この頃、色々な文献やyoutubeの動画から探し出したヘルメットの画像を集めて、ボリューム(E:)(現在のブログ版)開設当時のような画像と数行の説明文だけのものを書き溜めて、mixiの日記で公表した。当時のタイトルは「ヘルメット考」で、後にそれほど大仰な物でもないのにタイトルばかりが立派なことがなんだか気恥ずかしくて「ヘルメット雑考」と改題した。この「ヘルメット考」が偶然元アナキスト革命連合オルガナイザーの千坂恭二の目に留まり、mixiでメッセージを頂戴し、「当時でもヘルメットをあみだにかぶったりして、同じような格好をしていても格好良い者もいたし、ファッションという側面から当時を振り返る試みはおもしろい」というようなお言葉を頂戴した。これが励みになったのは言うまでもない。

(その4)へ続く

 

2015年10月12日 (月)

僕が共産趣味者になった理由。君を趣味者にしたいわけ。 その2

その1)から続く

 マル共連は既に更新を停止していたし、マル共連フォーラムもあまりにもニッチな話題ばかりになってしまっていて初心者の趣味者には入り難い雰囲気があった。2chの共産板も似たようなものだった。

 そんな中で私が強く惹きつけられたのはヘルメットだった。ヘルメットは今も私の興味の主要な部分を占めているが、その原点はマル共連のヘルメットで見るセクト(現在リンク切れ。web archiveから閲覧可能。)だった。このたった1ページしかないコンテンツを食い入るようによく見ていたことは今でも覚えている。

 このページには『当時の写真資料を見ると、もっと多くのヘルメットが存在しますが、団体を特定できないので掲載はやめました。』という一文があった。ヘルメットに興味を抱いた自分は、「いつかこの『ヘルメットで見るセクト』を引き継ぎ超えるようなページを作るんだ!」と思い立って、当時の映像や写真を調べ始めた。今は私がHPなどでアップしていることもあって沢山あるが、当時ヘルメットの写真は調べてもあまりネット上にはなかったのでひたすら文献調査に取り組むしかなかったのだ。

 まずは「ヘルメットで見るセクト」でイラスト化されているヘルメットを写真で確認しようと当時の写真集なんかを学校の図書館や、学校の横にある大学図書館で調べてみたが興味は増すばかりで、学校にはない写真集を見に千葉県立西部図書館にも足を運んだ。
 しかしそれでもまだまだ見つからないヘルメットがあった。そのあとは少し知恵を使って大学図書館のアサヒグラフ誌をひたすら見たりしたのだが、この過程では多くの正体不明のヘルメットを見つけたり、名前は出てくるけどヘルメットの写真が見つからない党派を見つけてちょっとがっかりしつつも一層興味が燃え上がった。

実は「ヘルメットで見るセクト」でイラスト化されたヘルメットの中でも、白ヘルの「民学同」と、黒ヘルの「プロ軍団」は見つかっていない。それらしいものや見切れているものはあるのだけど。

 色々調べても見つからないとなると、今度は一次資料を見るしかないと思うようになった。だが、機関紙やビラを所蔵している図書館なんてない。国会図書館にはあると判ったのだがまだ年齢的に入れなかった。よくよく調べると郷土史の関係で、三里塚闘争の舞台となった私の住む千葉県の中央図書館には第四インター機関紙「世界革命」の縮刷版があると知って見に行ったが、縮刷版を捲くる度にまた知らないヘルメットを見つけたりと、興味はますます広がっていった。

 機関紙といえばマル共連には「各派機関紙紹介」(現在リンク切れ。web archiveから閲覧可能。)というのもあって、しかもこれらの機関紙の殆どは新宿の模索舎という書店で買えると知った。自分も機関紙を手に入れたいと模索舎の前まで勇気を出して行ってみたが、いざ入るときは正直怖かった。その扉の向こうにはテロ・ゲリラをするような活動家のたまり場になっているのではないかと勝手な妄想をしていたし、マル共連フォーラムの過去ログで過激派の動向を探るべく公安が出入りしていると聞いていたから、自分も公安に誰何されるのではないかとかいろいろ考えてしまっていたのである。

しかもよりにもよってその日模索舎は「恐れることはありません」なんていう無責任な札を閉まった扉にかけていたものだから、どうにも目の前のその扉を開けるには勇気が要ったのである。

(その3)へ続く

2015年10月11日 (日)

僕が共産趣味者になった理由。君を趣味者にしたいわけ。 その1

 先日異動を命じられて、遠く四国の地に来た。転勤したのはいいのだが、今とて仮の住まいに変わりはなく、四国内での再転勤を命じられる可能性もあり、荷物になる、というかおそらく独り暮らしをするのに必要な荷物の2倍くらいあろう実物資料はさすがに実家に置いてきてしまい、手元に何も資料がないのでHPの更新もままならない。
 となれば、出来ることはなんとなくこういった雑文を書くことだけなので、ここでまとめて書いておこうと思う。資料は帰省時に多少必要な物を持ってきて更新することにする。

僕が共産趣味者になった理由

 今でこそtwitter上には若い共産趣味者が多くいるが、かつて私が共産趣味者であるという自覚を持った当時は、私のような平成生まれの趣味者というのは、私の知る限り未だいなかった。仮にいたとしても居場所がなかっただろう。SNSといえばまだまだmixi全盛期で、海外のSNSといえばtwitterもまだまだ万人の知るところではなく、個人向けでもFacebookよりはMySpaceがメジャーであった(筈だ)。私はMySpaceにアカウントを持っていて、バラク・オバマ氏が大統領選に出馬した当時はフレンドになっていたが、その後リニューアルだなんだでアカウントはなくなってしまっているようだ。

 大分どうでもいい前置きを書いてしまったが、私が共産趣味者を自認したのは高校1年生であった2007年頃であったと思う。きっかけはなんだったかはっきりとしない。一つには絞れないというのが正しい。

 直接的なきっかけとしては、一つには通学に使っていた山手線のインフォメーションモニター(あの、次の停車駅の乗換案内とか遅延情報を知らせてくれるやつだ)で、外房線の一部列車が運休になり、その事由として普通なら「人身事故」だとか「線路内人立ち入り」、「強風」などと書かれるべきところに、「ストライキ」と表示されたのを見たことである。 ストライキが何かということを知らないわけではない。別に学校で教わらずとも知っている。

 しかし、それで鉄道が止まるということがあり得るなんて思ってもみなかったし、生でストライキをやっているところなんて見たことがなかった。そこで興味を持ち、動労千葉を知り、旧マル共連にたどり着いたというのが一つ直接的なきっかけである。戦後すぐの生まれで全共闘世代にもやや被る父にかつての国労や動労について聞いてみると、企業の労務管理を長くやり、全労協加盟の組合とも労使交渉をしたことのある父はよその父親よりはかなり詳しく、動労は革マルが殆どだが、千葉地本だけは中核派系だったという話とか、ストライキで鉄道が止まった話だとかいろいろしてくれた。父についてはまた稿を改めて書いてみようと思う。

 もう一つこれも直接的なきっかけはベトナム戦争に興味をもったことである。私はいわゆる軍事オタクに片足を突っ込んでおり、かといって特定の興味の対象があったわけでもなかったのだが、日本の戦後史にも大きく絡んでくる「ベトナム戦争」というのがなんなのかをいまいち判らず(正直今もよくわかってないけど)、ベトナム戦争についてインターネットで調べたり、中公新書の「ベトナム戦争」を読んだりといろいろ調べていたが、その過程でベトナム反戦運動に興味を持ったというのがある。ベトナム反戦運動について調べると、当然学生運動についても興味がわく。

 なお私が初めて手に取った学生運動の本は中公新書に入っている元東大全共闘の島泰三氏の「安田講堂1968-1969」だった。これは共産趣味の入門書としては手軽だし読みやすいのでお奨めしたい。

(その2)へ続く

2012年7月 8日 (日)

おすすめ書籍等々

最近ブログ版を更新してませんね。申し訳ないです。
日々のつぶやきはtwitterでやってしまっているので、どうもブログ用に文章を書くということがなくなってしまいました。
当時ものの写真とか、実物資料とかのアップロードもtwitterの方でやってしまうことが多いので、これについてはtwitterを見ていらっしゃらない方には申し訳なく思っています。

twitterでアップロードした写真なんかは、基本的には下記URLから参照可能ですが、私のとった写真や私の公開した写真だけでなく、私のRTした写真も含まれていますのでこの点についてはご注意ください。
https://twitter.com/#!/front_chiba/media/grid

ということで、まぁネタは色々あるんですが、今回は最近でた良い書籍類についてご紹介したいと思います。

書名をクリックすると、模索舎の販売ページに飛びます。
模索舎は経営難が常態化してますのでLink先から買って貰えると嬉しいです。
私のところにはキックバックも当然なく、アフィリエイトでも何でもないのでご安心ください。

Dscn0126_2
『山谷への回廊 写真家・南條直子の記憶1979-1988』
 2012年/A5変形/
258頁/¥2,500

 良い写真集だ!ということで話題沸騰です。私も太鼓判を押します。
 内容は良くわかんないけど最初の方に右翼関係の写真がありまして、そのあとが山谷の日常、山谷での日雇い労働者の運動、といった構成です。
 聞いた話ですが、限定300部らしいです。内容も良く、少数部発行なのにこのお値段はお買い得です。


Dscn0128
『全軍労・沖縄闘争 比嘉豊光写真集』
 2012年5月/
B5/
352頁/¥4,200+210

 これも非常によい写真集です。全軍労ものの写真集はヤフオクとかで5000円を超える様なもの(空軍支部の出したやつ)とか、現在の全駐労沖縄地本が90年代半ばに出した『全軍労・全駐労沖縄運動史』の三冊組の一つとかのほかは、沖縄関係の写真集にちょろっと出てくる程度だったのですが、これ一冊買えば十分満足できる内容になっています。
 値段はありていに言えば確かに高いのですが、写真集としては普通の値段ですし、中々大きな本ですし、それだけの内容ですので、ぜひ一冊お手元に置いておかれることをお奨めします。


〈DVDブック〉小川プロダクション『三里塚の夏』を観る 映画から読み解く成田闘争
 2012年5月/192頁/¥3,333+167

 ついに小川プロの映画がDVDであなたの手に!ということでこれも話題になりました。写真がないのは私がまだ買ってないからです。ソンナニカネネーヨ…。
 小川プロの映画はアテネ・フランセでわりと良く上映会をやってますので、気になる方はそういった機会に見に行けばよいかと思います。


Dscn0129
『六〇年代社青同(解放派)私史』,樋口圭之介著
 2012年7月7日(←昨日だよ!)/290頁/¥2500+税

 はいっ!真打ち登場です。
 なんと昨日発行!書店に並ぶのはまだまだ先!模索舎にだけ先行入荷しております!
 私もまだ内容をキチンと読んでませんが、パラパラ見ましたけど理論的な問題だけを長々と扱っているのではなく、歴史について書いてまして、読みやすいです。多分。
 写真もわりと豊富です。
 著者の樋口圭之介氏は社青同東京地本委員長にして後の解放派社青同(革労協パージを受けた為に、1970年に解放派が独自に再建。)委員長であった方です。
社青同の歴史の概略についてはボリューム(E:)でも簡単に歴史を紹介しているので是非ご覧ください。
 こちらの書籍は模索舎HPに販売のページがありませんが、入荷はしてますので電話かメールで注文して下さい。
⇒HPが更新され、販売のページができました。

 まぁこんな感じですかね。とりあえず詳細情報が出てないので以下に目次と奥付の写真を上げておきます。

Dscn0130
Dscn0131
Dscn0132
Dscn0133
Dscn0134

2011年11月24日 (木)

沖縄返還協定批准阻止闘争から40年―中村警部補の慰霊碑を訪ねる

この記事は2011年11月に執筆したものですが、HP・ブログの一時閉鎖及び再公開の際に、HPに移し、内容を大幅に加筆いたしました。

HPの加筆した記事をご覧ください。

ボリューム(E:) 中村警部補の慰霊碑を訪ねる

https://sites.google.com/site/nagato0326/1971-okinawa

1971年11月14日の渋谷暴動事件から、今月で40年が経った。渋谷暴動の話を初めて聞いたのは共産趣味の世界に入る前、いつかは定かではないが父から聞いた。

どんなに遅くとも小学生の時であったと思う。他愛もない話をしていて話が将来のことに及んだ。父は今は普通のサラリーマンだが、実際は父の将来の夢はなんだったのかと聞くと、父は「ハワイの新聞記者」と答えた。
奇妙な答えである。
父が言うには新聞記者になりたかったのだが、1971年の渋谷暴動事件の際、火炎瓶を投げつけられ火達磨になってのた打ち回る機動隊員をテレビカメラは平然と追いかけており、消そうともしなかったことに失望したというのである。だから平和(そう)なハワイの新聞記者になりたいと。まぁハワイの件は冗談だろうけど。

父が言うには「学生側であろうと機動隊員であろうと、火達磨になって苦しんでいる人間を傍観するというのは人間性に問題がある」と。私も尤もだと思う。

これを「きれいごとだ」という人もあるかもしれない。なるほど確かにこの世界に入ってから機動隊員がどのような仕打ちをした(している)かとかはよく聞くことであるし、それによって嫌いになるのも分からないではない。だが、それでも私は火達磨になって苦しむ人が目の前に居れば何とかして消そうとするのが人間であろうと思うし、それに本来中立であるべきマスコミが手を出したとて非難される筋合いはないと思う。
後年ピューリッツァー賞を受賞したスーダンの少女の写真で物議を醸したのと同様の問題であろう。もっとも飢餓の問題は一度手を差し伸べても解消されないが、火達磨になっている機動隊員は一度消して適切な救護が施されれば足り、継続的な努力による問題解消は必要がないが。

このことについて論争するつもりはない。何と言われようと目の前で火達磨になっている学生や機動隊員が居れば私は消火に努めるのが人間であると思うし、それに反対するような輩と話すつもりはない。お引き取り戴きたい。

父がテレビで見たという火達磨の機動隊員が中村警部補であるかどうかはわからない。だが中核派が「機動隊せん滅」を唱え、若い警官が焼き殺されたという事実があり、その研究に携わる人間として一度は中村警部補の慰霊碑に手を合わせたいと思って今回、慰霊碑を訪れた。

さて、本題に入ろう。
慰霊碑を訪ねようと思ったのは現在も指名手配中の活動家のポスターに小さく慰霊碑の写真が載っていたからで、それまではその存在すら知らなかった。

実際インターネットで調べても慰霊碑の場所はわからない。個人ブログに載っていた日記から渋谷のお米屋さんの近くにあるということまではわかったのだが。
場所がネットで調べてもわからないとなると、訪ねるだけでなく場所をネット上で公開しなくてはいけない気がしてきた。

そこで過去の新聞記事を探したところ、中村警部補が襲撃されたのが渋谷区の神山町であること、慰霊碑の土地を提供したのが付近のお米屋さんだということまでわかったので検索したところお米屋さんが特定でき、Googleのストリートビューで慰霊碑の確認ができた。
場所は東京都渋谷区神山町11-10 NHKのセンター下の交差点と観世能楽堂のほぼ中間にある神山町東の交差点にあるローソンの向かいの精米店脇である。

Dsc_1697
写真の精米店の右側、クロネコヤマトの看板の辺りにある。

Dsc_1702_kai
道の反対側から慰霊碑を臨む。高さは50cmに満たない程の小さなものである。

Dsc_1682
慰霊碑。正面の碑文は不明。沢山の献花をどけるのは憚られたので。

Dsc_1707
慰霊碑全景。

Dsc_1705
横の碑文。

中村警部補のご冥福をお祈り申し上げます。

※訪問される方へ
意外と車の往来が激しい道路で歩道もないので、他の通行者や自動車等への配慮をお願いします。また事故に遭わないよう呉々も気を付けてください。

2011年11月 7日 (月)

資料紹介-もののべながおき氏日本共産党復党申請書&復党確認書(新規取得資料)

もののべながおき(物部長興)の日本共産党に対する復党申請書及び復党確認書を公開する。

恐らく日本共産党の内部資料に類するものと思われるが、書かれてから相当の期間が経過していること、当該人物が故人であること、戦後の日本共産党混乱期に関する資料であり貴重なものと思われること等の理由から公開する。

日本共産党の混乱期とは何のことか、と言った類のことはwikipediaの日本共産党の項を見て戴ければ大体把握できると思う。

当該人物は、復党申請書添付の経歴書等から照らして、後にベトナム反戦ちょうちんデモの会を組織したもののべながおき氏とみて間違いない。

氏の略歴についてはデジタル版 日本人名大辞典+Plusの記述を参照して戴きたいが、本資料はこれに記載されている氏の日本共産党との関係に関しては食い違う点もあることを御留意戴きたい。

【日本共産党への復党申請書】

Photo

復党申請書はA4版のレポート用紙に書かれており、昭和31(1956)年1月13日付となっている。

内容は日本共産党中部地区委員会宛てで、物部氏がかつて≪1949年6月頃≫確立に尽力した細胞であり、氏の除名前の所属であり、氏の除名と同時(期)≪1951年7月≫に一度解散処分になり(内容を読む限り別の細胞に統一されたらしい)、後に再建された細胞を所属組織(復党確認書記載の表記による)として復党を申請している。(≪≫内は本申請書添付の「経歴書」(詳細後述)による。)

申請書の執筆者は当該細胞の構成員であるが、「代」とだけあり、これが当該細胞の代表者を意味するのか、或いは当該細胞の長の代理を意味するのかは不明。

この復党申請は当該細胞の細胞会議に於いて確認された復党への承認を、上部機関である東京都中部地区委員会に対して求めたものであり、また既に口頭ではこの件について報告しており、先に行われた党内の調査に於いても党員の一人としてカウントされているようである。

以上のようなことから、本申請書は極めて形式的なものであることが分かる。口頭で了解を取っただけなのに、物部氏の存在が党の調査に既に算入されていることから、上部の反対が予定されていないことが推測されるからである。つまり氏の復党は特段の異議が生じようのないありふれたものとして扱われていたように見受けられるのである。

即ち、物部氏は、党の混乱の収拾が開始された1955年7月の六全協以降、党の方針として統一を進める中で、分裂によって除名され、或いは党を去った人々を再び糾合する大きな流れの中で復党した多くの党員の一人に過ぎないということであろうと思われる。

なお、本申請書にはB5版原稿用紙3枚に亘る物部氏の「経歴書」が糊で添付されていた。これらについては、個人情報としての色彩が濃いものであることから、今回の公開は見合わせた。

【日本共産党からの復党確認書】

Photo_2

本確認書は、A5版より一回り小さい位の大きさの藁半紙で、復党確認書のフォーマットがガリ版で刷られており、それに必要事項等を書き入れている。1955年1月17日付になっているが、これはフォーマットを訂正していないためで、正しくは1956年であろう。

地区委員会が「一九五五年」と単年のフォーマットを印刷して用意してあったことからもこの頃の復党者が多かったことが窺える。

【復党申請書添付の経歴書】

1頁目

1

2頁目

2

3頁目

3